豊後の戦国大名大友宗麟を大河ドラマ化しよう!!と、どこかが企画していますね。
まっ、大友宗麟についてはこれだけです。
今年は黒田官兵衛が大河ドラマで放送されるということで中津や耶馬溪、宇佐の方は盛り上がっています。やはり黒田官兵衛、いくさも人気も強し!
大友一族には、全国区の知名度はありませんがわれわれ郷土の英雄「狭間鎮秀」という武将がおります。
地元では悲運の知将ということで、挾間の歴史関連の資料には度々度々登場します。
大友氏が島津氏と戦となった豊薩戦争の時、豊後に浸行してきた島津軍を、大分のほぼ中央挾間庄内の地で迎撃しようとしたのが狭間鎮秀です。
大将の大友義統が、大友氏にとって最重要防衛拠点の高崎山城からも退却する中、民を守るため高崎山のふもとのこの地で島津軍を迎え撃つことを決意し大友軍本体からは離脱します。
天然の要害由布市庄内町の権現岳城で、挾間庄内の一族農民わずか400人で4000人の島津軍と1ヶ月あまり戦いました。
両軍とも多くの将兵が戦死する激闘をしましたが、水も食料もなくなり、また島津軍からの申し出によりついに講和を結び停戦します。
が、それが裏切り行為ととらえられ一族である大友氏から追撃され果てた武将です。
耳川の大敗北で勢いをなくした大友氏にあって、戦わずして島津氏に寝返るものも多くいた中、島津軍と激闘した挾間氏がなぜ討たれたのか。
まあそのあたりが悲運の武将ということです。
権現岳城は由布高校の裏手の山の上で、小野屋駅からもよく見えます。
家が近いので小さいときは祖母からいやというほどこの話をされました。
島津軍を撃退した猿渡の川では鯉やフナがよく釣れていたので釣りには行きましたが、ここら辺で工事をしたら刀やら鎧やら人骨がたくさん出たらしく、子供心に山には近づかないようにしていました。
この挾間氏の隠れ砦があったのが今の陣屋の村 です。平和なときの居館は、現在挾間小学校がある場所にありました。
由布院から見た歴史観