呉楚戦争であと一歩で完全勝利というところまで行きながら、越の邪魔が入ったことによりこれを阻まれた呉は、国力を蓄えながら越への逆襲の機会を待ちます。
10年後の紀元前496年にそのチャンスが訪れました。
越王の允常(いんじょう)が亡くなり、まだ若い息子の勾践(こうせん)が後を継いだのです。
呉の闔閭(こうりょ)と伍子胥(ごししょ)は、この政権交代によりまだ新しい体制が十分に整っていない今がチャンスと考え、越に攻め込みます。
越王・勾践には范蠡(はんれい)という参謀が付いていました。
呉越戦争は伍子胥と范蠡の知恵比べという形で進みます。
呉軍の進撃を范蠡はヘンテコな奇策で迎え撃ちます(多分、史実ではないと思いますが)。
彼は死刑囚を集めて兵隊に仕立て、呉軍に向かって進軍し、呉軍の目の前で刀を出し、自分の首を自分で切って自害するというパフォーマンスをさせます。
呉軍の兵たちがこの奇行にあっけに取られている間に、別の方角からひそかに接近していた越の正規軍が、呉軍の隙を突いて一気に攻め込むという作戦です。
この奇策にはまった呉軍は敗走するのですが、その過程で大将の闔閭が越軍の放った矢に刺されてしまいます。
矢が当たったのは足先なので致命傷ではありませんでしたが、その傷が元で破傷風になってしまい、彼は間もなく命を落とします。
闔閭が亡くなることが確実された頃、後継者を誰にするかという問題が発生します。
闔閭には何人かの息子がいたものの、呉を率いて行けるほどの器のある人物はいませんでした。
息子の一人である夫差(ふさ)は王になりたかったので、闔閭の腹心の部下である伍子胥に、自分を推薦するよう頼み込みます。
夫差はイマイチだと思っていた伍子胥でしたが、他に適任もいなかったし、自分に熱心に頼む夫差に恩を売っておけば、夫差が王になった後に自分の言うことを聞くだろうと考え、闔閭に次王として夫差を推薦します。
この人選に当初は難色を示した闔閭でしたが、「伍子胥の頼みなら」ということでこれを受け入れ、夫差を後継者に指名しました。
闔閭は臨終間際に夫差を枕元に呼び、「越の勾践への恨みを晴らせ」との遺言を遺して没します。
夫差は父の復讐を果たす為、呉の軍事力増強を急ピッチで進めます 。
その間彼は、父の無念を忘れないように、夜寝る時は硬い薪の上に寝たそうです。
これが「臥薪嘗胆」という慣用句のうち「臥薪」という部分の語源になりました。
一方、越の勾践は、呉が自らへの復讐の為に軍事力を整えつつあることを知り、先手を打って紀元前494年に呉に攻め入ります。
呉軍はこれを撃退し、勾践を捕らえることに成功しました。