大河ドラマ 麒麟がくる  第28回「新しき幕府」の関連地図です。

 

今回の大まかなあらすじです。

  1. 義昭信長上京で三好勢は大和・摂津方面に退避。それらを追い退け三好本拠の芥川山城に入る。この頃14代将軍足利義栄(よしひで)は死去。
  2. 評定は紛糾。松永久秀をどうするかでもめるが信長に促された義昭の一言で松永抱き込みで決着する。代わりに摂津晴門の政所起用を提案し、信長は「よろしいかと」
  3. 松永久秀は「九十九茄子」の茶壺を信長に献上。身の安泰を確認したのち大和の筒井順慶と戦うために大和(奈良)に帰る
  4. 藤孝勝竜寺城主になる。
  5. 義昭はめでたく15代将軍に。見届けた信長は岐阜に帰城
  6. 本圀寺の変勃発
  7. 藤孝光秀はこれまでの旧幕臣の悪政を知り、摂津の裏工作を疑う。
  8. 上京した信長摂津を叱りつける。そして二条城の建造を宣言する
  9. 信長朝倉義景討伐を光秀にささやく。摂津信長への復讐に燃える。
  10. 城の建築現場で信長に媚びる義昭を下から眺め観る光秀。そして砕かれた石仏に煮え切らないまなざしを送る。
そのような感じでした。
 
まずは1.から。これは前回投稿に詳しく説明してあります。流れを再度を貼ってみます。
その他の支城で起きたことなどもプロットしましたのでよろしければご覧ください。

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1arTJlqpJQzkNPPnMwlFM0TkEbzvhWe6i&usp=sharing

 

 

14代将軍足利義栄織田信長が進軍してきた9月30日に富田城(普門寺城)で病死します。

タイミング的にこれは病死ではなく、連れて逃亡できないので殺されたのでしょう。

三好に良いように使われて亡くなった将軍でした。

 

2. ドラマでは芥川山城に入った信長軍首脳と幕府軍首脳とで軍議が紛糾しています。

芥川山城前々回投稿「羽運ぶ蟻」でも紹介した和田惟政に与えられました。ドラマでも出てきた池田勝正伊丹親興和田惟政の3名は「摂津三守護」と言われ摂津において非常に重要なポストでした。中でも和田惟政芥川山城は京都の入り口を守備する重要な位置。信長足利義昭の信頼の厚さがわかります。そして本圀寺の変でも和田惟政細川藤孝らとともに足利義昭救出による功を評され、芥川山の東南にある高槻城をも任されることになりました。芥川山城には彼の腹心の高山友照高山右近父子が入りました。高山右近は一般的にもキリシタン大名として有名ですが畿内のキリシタンを大いに保護したのは和田惟政です。彼無くして畿内のキリシタン大名の発展はなかったことでもありました。和田惟政はその後荒木村重に敗死しています。大変惜しまれたそうです。

 

ドラマでは摂津晴門というマイナーな人物が出てきました。正直、私はノーマークでした^^;こういう人を出してくるあたり、今回の大河ドラマの面白さだな!と思いみています。光秀藤孝が表なら、彼は裏。裏なくして政治無し。ということを見事に表現していますね。本圀寺の変でも、光秀は彼の裏工作を疑う仕草をしています。そういえば松永久秀朝倉の不穏な動きを光秀に耳打ちして去りますね。今回はそのあたりの人の機微も面白い部分です。

 

3. 松永久秀信長九十九茄子」(つくもなす)の茶器を献上し、早々に大和に引き上げていきます。これは芥川山城の評定で松永久秀の処遇を取り決めた時、大和一国は「切り取り次第」としたことにあります。「褒美は自分で攻め取れ」ということなのでそれはじっとしていられません。「松永信長が付いた」という報は大和の国人衆の寝返りを誘い、筒井順慶筒井城を追われ、山中の福住中定城に逃亡することになります。その後、一時、大和は松永久秀の完全支配下に入りました。

 

↓「九十九」(つくも)の茶器。

売ったら1000貫(約1億円)の価値がある。と光秀に耳打ちするが光秀はお金には興味がない様子。(^-^;

 

4. 細川藤孝明智光秀はともに幕臣として同じ船に乗っている友として描かれますね。藤孝の得た勝竜寺城は後の「山崎の戦い」でも重要な城として出てくることになります。このあたりも伏線かな?

 

5. 同年10月14日義昭芥川山城から本圀寺に、信長清水寺に入り、その後は将軍就任まで下記のように動いていきます。

 

10月14日 本圀寺に入る

10月16日 細川邸に移動

10月18日 足利義昭15代将軍就任

10月22日 足利義昭参内する

10月26日 信長岐阜へ帰城

10月29日 本能寺に移動し、執務を行い始める

12月21日 本能寺から執務場所を移動するように言われ本圀寺へ

翌1月3日 本圀寺の変勃発

 

ドラマでは本圀寺の変後、光秀と藤孝は本格的に旧幕臣や摂津晴門を疑い始めます。
加えて、以前の投稿でも書きましたが本圀寺自体が生臭坊主が多かったことから、旧幕臣たちの中には三好を手引きする輩がいてもおかしくはなかったでしょう。しかしこの当時の本圀寺は上の地図でも分かる通り、広大な敷地を有する一大城砦のような寺でした。空堀や防塁もあった可能性も高いので、三好勢も落とせなかったのです。ここに上記でも述べた和田、細川藤孝軍などの援軍が駆けつけ、義昭は難を逃れました。面白いことにこの時の三好軍には岐阜城を追われた斎藤龍興も加わっていました。しつこいですね~。
 
8. 信長はこの報を聞き豪雪の中をわずか2日で上洛しています。「信長公記」にはこの時の様子が書かれていますが、とにかく伴回りも連れず、豪雪で脱落していく家臣を置いてきぼりにしてまで上京しています。この時の信長はドラマそのまま「怒り心頭」だったのでしょう。
 
10. これを機に足利義昭専用「二条城」(今の二条城ではなく御所の西に作った城砦。旧二条城)を建築しています。この時の様子も「信長公記」に詳しくかかれていますが、信長は自ら人足として働いたようです。城の造成中はイベントを催したり、一方で兵士が通りがかりの女子をからかっているのを見て、その場で首をはねる(!)などの処断もくだしており、非常に統率が取れた現場だったようです。ともあれ2カ月で実際に完成されたと書かれており、これには諸国度肝を抜いたことでしょう。常識外れ。誠に企画外です。
 
また、ここでは砕かれた仏塔を苦々しげに見つめる光秀が印象的に描かれていました。
一方の信長は神仏の加護や神仏の罰などない。という描写。
このシーンものちの伏線になっていきますが、個人的にはとても印象深いシーンでした。
 
次号も楽しみです!!