大河ドラマ 麒麟がくる

第26回「三淵の奸計」。第27回「宗久の約束」関連地図です。

 

さて。日々忙しく投稿が周回遅れ気味です(;'∀')。

麒麟の26、27回は義昭の上洛までのお話なのでここはまとめて投稿したいと思います!

 

光秀信長は前回投稿のようにお互いの価値観がズレたまま「上洛」という目的で一致します。

第26回~第27回は永禄10年末~永禄11年(1568年)の上洛までが舞台です。

少しこのあたりの時系列を整理してみましょう。

 

●1568(永禄11)年の出来事

2月8日   足利義栄(よしひで)が室町幕府14代将軍に就任

4月15日 京都から二条春良を越前に招き、足利義秋は元服し「義昭」と改める。

6月25日 朝倉義景嫡男 阿君丸(くまぎみまる)死去。

7月16日 足利義昭。一乗谷の安養寺から浅井を経由し、美濃の立政寺へ到着(7月22日)

8月某日 朝倉義景が若狭平定。若狭武田氏の武田元明を一乗谷に連行し、若狭武田氏は滅亡

9月7日  信長足利義昭、上洛開始。

9月13日  六角義賢の観音寺城陥落。

9月28日  信長東寺に陣を移し、義昭は清水寺に入る。

9月30日 信長。義昭を伴い芥川山城に入る。同日14代将軍・足利義栄死去。

10月14日 義昭。京都の本圀寺に入る。

10月18日 義昭征夷大将軍に就任。

 

まずは義昭の動きをおさらい。各地を渡り歩いていますね。(興福寺脱出~矢島御所までは前回投稿をご覧ください)

矢島御所に居た時いったんは信長と上洛を試みたものの、六角義賢、斎藤龍興三好三人衆が連携し反抗勢力に加わったため、止む無く若狭の武田義統(よしむね)を頼ります(武田義統義秋(義昭)の妹婿)。しかし、後瀬山城に移ったもののお家騒動の真っただ中で上洛どころではなく、越前の金ヶ崎城に移り、そこで朝倉義景の招聘を待つことになりました。翌年、京都から二条春良が越前に赴き、足利義秋は元服し「義昭」と改めます。しかし、その後も義景はなかなか動きません。そこで、一行は信長を頼ることになります。

明智軍記」には明智光秀信長との橋渡ししたとなっています(「明智軍記」は資料としての信憑性が乏しいので実は疑問視されてます)。ドラマでは三淵藤英の策で義景の子阿君丸(くまぎみまる)が毒殺され、上洛の意思を削がれますが、歴史書として信頼度が高そうな「朝倉始末記」を見ると、信長の元に行くという義昭「まあまあ!そういわず考え直してくださらんか?」みたいなやり取りがあったと記されています。そのため阿君丸の死が上洛断念というのはドラマの設定で、常識的に当時の状況では無理だった。ということのように思います。おそらく世間にも義景の判断は妥当で信長のほうが異常に映ったでしょう。上洛は戦費もかかりますし博打みたいなものです。領国経営第一で動けない、というのはむしろ自然な理由です。信長の元に行くといわれてもまあ、致し方ないか。と最終的には認めたのではないでしょうか。岐阜への道中も、浅井領までは朝倉軍が警護し、関が原までは浅井軍。関が原から岐阜の立政寺(りゅうりょうじ)までは織田軍が義昭を警護しています(朝倉始末記)。

 

立政寺ではドラマでもあったように一千貫文(約1億円!!)を山のように積み上げ、太刀、鎧、武具、馬などを献上した。と「信長公記」にもかかれていますびっくり。これにはさぞ義昭も色めき立ったことでしょう。信長は津島・熱田の港を押さえていましたから、他の大名に比べて金持ちだったのです。

 

そして。いよいよ義昭は上洛に向けて動き出します。ドラマでは軍議が紛糾しますね。「甲冑を脱いで入京すべし」と主張する明智光秀「戦はそんな生易しいものではない」とする信長家老以下お歴々。まあ、甲冑を脱ぐかどうかの軍議などはなかったでしょうてへぺろけれど、ドラマとしては面白い設定だな、とは思いました。

 

京都と岐阜との間には六角義賢(承貞)がいます。織田軍は初めから「六角打ち破るべし」だったわけではなく、8月7日から1週間ほどかけてまず説得にあたってます。「義昭が将軍についたら所司代にすることを約束する」という条件まで提示するも承諾せず、止む無く征伐の準備を始めていきます。(六角は義昭が矢島御所にいたとき反旗を翻しているので、その負い目や、いまさら織田の下にはつけないというプライドがあったのでしょう)。ドラマでは今井宗久が裏で資金を融通し、三好を助けている描写があります。これは事実だったのではないでしょうか。戦は金ですから。

 

そして永禄11年9月7日出陣義昭を岐阜に残し、まず信長軍が先発します。この時起こした軍は、美濃・尾張・伊勢・三河の連合軍。大垣近郊の「平尾」で合流し総勢3万程度が西へ。翌9月8日には彦根の高宮に至り2日間滞在。ここで浅井の援軍と合流したものと思われます。9月11日には愛知川のほとりに着陣。六角の本拠「観音寺山城」の目前に迫りました。

観音寺山城箕作山城は街道を挟む東西でお互いに支城の役割をはたしていました。街道に関所を設けここで関銭をとって財政に充てていたのでしょう。ここは落とさねば通れません。

 

信長は自ら閲兵し攻め場を割り振ります。まずは東の箕作山城信長の馬廻り衆木下藤吉郎丹羽長秀浅井政澄の精鋭で一気に攻め込みました。午後4時ごろ攻撃開始。夜には陥落。翌日、隣の観音寺山城を攻めたころには六角父子は城を脱出し、残党を残して撤退しました。残党を掃討し安全を確認した信長は、14日報告を兼ねて義昭を呼びにやり、9月22日に義昭は観音寺山城の西隣にある桑実寺に入りました。この時信長軍は1500人の将兵を失ったそうです(フロイス日本史)。

 

この城攻めには面白いエピソードがあります。城攻めには新参者の西美濃三人衆(稲葉通良、安藤守就、氏家卜全)が当然先鋒を命じられると覚悟しておったところ、信長お馬廻り衆や織田家の歴歴を先鋒にあたったことです。稲葉たちは「意外ななされようだ」と驚いたとかかれています。このあたりが信長の信長たるゆえんかもしれません。

 

そこからは守山⇒大津の三井寺に進軍し、ここで信長義昭とは分かれ9月28日。信長は東福寺に軍を進めます(同日、義昭は清水寺へ移動しました)

義昭上洛まで

ドラマでは六角を倒して戦は終わったような描写でした。

 

ところが実際にはここで戦は終わらず、京を通り越し、ここから三好一党の掃討戦に移っています。

三好攻め

足利義昭が上洛するまでの主要施設プロット地図

 

9月28日:東福寺本陣より、柴田勝家、蜂谷頼隆、森可成、坂井政尚が桂川を超えて勝竜寺方面に進軍。岩成(石成)友通の軍とぶつかり敵の首50ほどをあげる

9月29日:信長出陣。勝竜寺の北西にある寂照院に本陣を移動。岩成友通降参。

9月30日:本軍を山崎まで進める。芥川城で籠城していた三好三人衆筆頭、三好長逸(ながやす)と細川昭元は退場し阿波方面に逃走。

三好、細川逃走後、信長義昭を伴って芥川城に入り、ここに本陣を移す。

10月2日:池田勝正を攻撃。桶狭間合戦でも活躍した水野家の家来の梶川高秀、信長お馬廻りの魚住隼人も参陣。梶川高秀は腰骨を槍で突かれて後ほど死亡。魚住隼人も負傷して後退した。激戦の末に池田勝正は降参しました。

三好の反抗勢力の二城が落ちたので、そのあとは芋づる式に周辺の城も降伏。摂津も信長に掌握されました。

 

この時、芥川城に戻った信長の元には、貢物を届ける人でごった返したそうですびっくり

松永久秀は茶入れの「九十九

今井宗久武野紹鴎の茶入れ「茄子」と茶壺「松島

を献上。両方とも国宝ですね。

中には源義経の来ていた鎧兜を献上した人もいたらしいです。

 

↓ 茶入れ「九十九(つくも)

↓茶入「茄子(なす)

 

そして、芥川城の後処理も一段落した10月14日には京都凱旋。義昭は六条の本圀寺に、信長は清水寺に入りました。

信長はここで軍制を敷き、狼藉をしないように兵士を厳と律したそうです。

この様子がドラマの最終シーンだったかな?と思います。

 

さて。ここで義昭は六条の本圀寺にはいります。普通なら二条の御所周りに居を取ると思いますが、義昭が本圀寺に入ったのには理由がありました。「仕返し」です。

 

本圀寺はこの時、巨大な寺内町をもつ贅をつくした一大寺院でした。寺内町は巨大な壁で周囲を覆われ、中ではナマ草坊主が肉を食い、酒池肉林の堕落した生活を送っていたようです(フロイス日本史)。また本圀寺勢はそれに飽き足らず、色々な悪さを働き、政治にも首を突っ込み、三好軍にも賄賂を送り自分に都合の悪い勢力に害を及ぼすよう裏で操っていたようです。反義昭の三好、六角にも金を送り、信長入京時にも多大な賄賂を送り「自分たちの寺に軍を駐留させないでほしい」「宿に使わないでほしい」と懇願したようですが、信長は寺社勢力を心底嫌っていたので取り合わず、むしろ怒りを買いました。

 

そのようないきさつで義昭本圀寺に入ります。本圀寺は巨大な一種の城砦のようでもあったので安全でもあったのでしょう。その後、10月22日には二条の細川昭元邸に移りますが、後に信長は本圀寺のありとあらゆるものを義昭の館に運び出させ、最後は完全に解体されました。

 

悪は滅びる。因果応報とはこのことですねてへぺろ

 

そして。最後の信長と光秀の緊張のシーン。

「お前は織田の家臣となるのか?それとも将軍様に仕えるのか?」

「将軍義昭様にお仕えします」

「分かった。以後そのように扱う」

 

くう~。明智!融通がきかねえなあ~グラサン