ちょっと間が開いてしまいましたが、大河ドラマ 麒麟がくる第24回「将軍の器」。関連地図いってみたいと思います。

 

今話は短縮してまとめれば【将軍義輝が三好一派に殺害され、のちに足利義昭になる覚慶が担ぎ上げられていくまでのお話】です。

ドラマで松永久秀は将軍の暗殺に自分は「関わっていない」と言ってますが、将軍殺害(永禄の変)部隊に加わった息子の松永久通(ひさみち)の軍が出発したのは大和の多聞山城ですから、関わっていないどころか黒幕有望ですグラサン

 

それと。これはあまり知られていないことですが、身の危険を感じた義輝は一度は夜陰に紛れて脱出しています。宣教師として有名なルイスフロイス「日本史」に当時の状況が詳細に書かれています。

 

(中略)

三好殿はまた弾正殿(松永久秀)という名の別の執政を有した。この人は大和国の殿で、年老い、有力かつ富裕であり、人々から恐れられ、甚だ残酷な暴君であった。彼は三好殿の家臣であったにもかかわらず、大いなる才略と狡猾さによって天下を支配し、諸事は彼が欲するままに行われた。彼は絶対的君主になり、かつ公方様に対する服従について気遣わなくよいようにしようと、暴虐な方法を用いて、権勢の道における最高位に上ろうと決心した。彼は若者である三好殿(義継)と、公方様を殺害し、阿波国にいる公方様の近親者をその地位に就かせることで相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それは両名がともに天下を統治することができようと考えた。この悪事を一層密かに悟られることがなく実行できるようにと、三好殿は公方様から数日前に授けられた名誉ある称号に対して彼に謝意を表するために都へ行くのだと偽った。


これは義輝にとってはガーン。ですね。融和策の一環で官職を与えたのを逆手に取られるとは。。キリスト教の布教には寛容だったのでその面で少し色眼鏡で見られていた感はありますが、フロイス日本史での義輝像は非常に聡明で、戦は極力避けようとする人だったように見受けられます。死生観は若くして持っていたようで「自分はおそらくは長くは生きられない」と生前から周囲に語っていたようです。

さて。上記のような言い分で京に進軍してくる、三好・松永軍ですが、そこは聡明な義輝公。「これは謀反を起こしに来たな」と察知します。そして。。

 

(中略)

彼は夜分、極秘のうちに他国に亡命しようとして、数名のごく信頼のおける殿(身分が高い武士)や友人を伴って宮殿から出ていった。すなわち彼は、叛逆が行われた場合には、自分たちには彼らに抗する力がないことを認めたからであった。彼は郊外一里ばかりに来た時に、伴侶たちに自らの意図するところを打ち明けた。しかるに一同は彼に反対し、次のように言った。

「いとも高貴であられる御身が、家臣たちに何ら叛逆の意図が明らかでないにもかかわらず、このように彼らの許から逃れるならば、御自らの威厳を失墜させることになりまする。ことに人々は皆、御身がいかばかり善良な君であらせられるか、また従来、家臣の何びとをも苦しめはしなかったことを承知いたしておるのでございます。それゆえ、早速引き返し、御身の君主としての名声をなんら傷つけぬよう取り計らうのが適切でござろうと存じまする。もしも突然遭難が生じるようなことがありますれば、身共は皆、御身とともに死ぬでありましょうから」と。かくて公方(義輝)様は彼らに説得されて帰路についたが、それは大いに彼のいに反することであった。

 

三好松永進軍図

 

上記のように一度は身の危険を感じて脱出しているのですが、私が気になるのは赤字の「信頼のおける殿や友人」は誰だったのか?という部分です。ドラマでは、光秀久秀に詰め寄るシーンで細川藤孝三渕藤英兄弟が出てきます。仮に彼らでなかったにせよ、確実に殺害を成功させるために将軍の名誉に訴えて連れ戻したのか?はたまた状況を見誤ったのか。いずれにせよ、クーデターは成功しました。義輝殺害までの経緯や殺害シーンもフロイスの「日本史」には詳しくかかれています。

 

翌朝、(中略)、公方様は百五十名ないし二百名の武士しか伴っておらず、しかも彼らのほとんどすべては都の有力な殿方ばかりであった。

公方様の宮殿は、ただちにそれら一万二千名に包囲された。三好殿は宮殿の壕に懸っている橋の門前に、松永の息子は別の門の傍らに位置した。宮殿内では、こうした異常な叛逆があろうとは全く考えていなかったので、宮殿の敷地内の門はすべて開かれていた。そしておびただしい数の火縄銃兵たちが侵入した時、岩成友通(いわなりともみち)という貴人が「身共は公方様に数か条の書付をお渡しいたしたく、お付け取り願いたい」と言った。公方様の義父に当たる美作殿(進士晴舎:しんじはるいえ)が出てきて箇条書を受理した。それは全く受け入れがたい要求に満ちたものであった。

 

義輝殺害までの進軍イメージ

 

中身は義輝の子を身ごもっている愛人(美作殿の娘)を殺害し、将軍の周りの殿方を殺害するなら引き返す。というものでした。無理な要求をして断らせ名分を持とうとする茶番ですね。もちろんそんなものは受け入れられないので、美作殿は将軍義輝の元に報告に行ったその場で切腹して果ててしまいます。。将軍に最後の時が迫る中。。

 

公方様は自らの生涯が終わったことを認め、折から昼食を取ろうとしていたところなので、食事を持参するようにと命じ、自分の前にいた殿たち全員の掌に、箸をもって一口の米飯と肴とを与え、さらにおのおのに対し、大いなる愛情の言葉とともに盃をとらせたので、一同は大声を上げて泣き、かつ涙を流した。

 

将軍義輝はドラマではだれもついてくる人が居ない無能な将軍像で描かれています。ところが実際は武略もあり最も戦を忌避しようとして奔走した将軍でした。賢く人望もあるからこそ松永や三好一派に取り除こうとされてしまったのでしょうね。。食事をとった後、美作殿の息子は一人敵に切り入り討ち死に。他の家来衆も切腹したりして果てていきます。そして。。

 

(中略)公方様は元来、甚だ勇猛果敢な武士であったので、長刀(なぎなた)を手にし、まずそれで戦い始めた。その際数名を傷つけ、他の者たちを殺戮したので、一同は極めて驚嘆した。そして彼が部屋から出ようとしたその時に、その母堂(義輝の母:慶寿院)は公方様を抱き、力を尽くして息子が外に出ていくのを妨げようとした。しかるに彼は再度彼女を突き放し、たとえ敵は賤しき者であり、身分於いて国主たる予には遥かに劣るとはいえ、予は密かに隠れて死にたくはない。一同の面前において公方らしく戦死したい、と言い、戦うために走り出た。ついで彼は一層敵に接近しようとして長刀を投げ捨て刀を抜き、勝利を目睫にしている者にも増して勇敢な態度を示した。だが敵は、幾多の弓、矢、銃、槍を携えてきており、彼ならびにそのわずかの部下たちは、武装に欠け、大小の刀剣を帯びているに過ぎなかったので、敵勢は彼の胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷二つを加え、かくて彼がこれらの傷を負って地面に倒れると、敵はその上に襲い掛かり、おのおの手当たり次第に斬りつけ、彼を完全に殺害した。

 

壮絶な最期です。最後まで勇敢な将軍でした。

この時、義輝の母「慶寿院」も刺殺され、義輝といた武士約百人の御武家衆が殺害されました。そこから数里にいた義輝の実弟「周暠」も殺害され。身ごもっていた義輝の愛人(美作殿の娘。小侍従)も知恩院に連れていかれ、非常に痛ましい最期を迎えました(彼女の最期は本当に痛ましいすぎて省略しました)。人の欲はいつの時代も残酷を生みますね。人は愚かだなあ。

 

閑話休題。

昨夜、不思議なことがありました。夢枕に義輝(向井聡^^)さんらしき人が立ち、何かを訴えている気がしました。もしかしたらこういう記事を書いてほしいと言ってるのかな?と思い今回はこうして長々と文字起こしをしてみました。これで少しは天国の義輝将軍の無念を晴らすことができたでしょうか。

 

以下、永禄8年(1565年)の義輝殺害(永禄の変)後に起きたことです。

 7月28日 一条院覚慶、のちの足利義昭が奈良を脱出し、六角>朝倉を頼る

 8月 伊木山に陣を構える。宇留摩城、猿啄(さるばみ)城を落とす

 8月28日 堂洞城を落とし、東美濃の大部分を手中に収める。

 9月  「麟」の花押を使い始める。

 

信長は絶賛美濃攻めの年でした。(この年の永禄8年(1565年)美濃攻めについては前回投稿をご覧ください)

 

この年から信長は「麟」の花押を使い始める!!

スゴイですね。ここで麒麟を引き継ぐという設定に持っていくのでしょうか?次回も楽しみにしています♪