「麒麟が来る。再開までの合間に」永禄4年(その2)です。

 

前回書いた森辺の合戦、十四条の合戦で西美濃方面攻略の目途をつけた信長の次なる目標は東美濃方面の攻略です。

 

「信長公記」には六月に「於久地城を攻めたとあります(年が未記載のため永禄5年の可能性もあります)。

於久地城(小口城、箭筈城)は、信長の従兄弟織田信清の治める犬山城支城です。信長にとっては従兄弟の反乱です(信清の妻は信長の姉「犬山殿」)。十四条の戦いに駆り出された実弟の織田広良が死んだことへの逆恨み説や、もともと不仲だった説もありますが、地図でもお分かりのように東美濃侵攻を阻止したい斎藤家の根回しが効いた、というのが本筋でしょう。

 

於久地城(小口城)攻め地図

初めは於久地城主、中嶋豊前守(犬山城家老)に調略を行ったようですが不調に終わり、於久地城を力攻めすることに決めたようです。信長公記には以下の記述があります。

 

六月下旬、於久地へ出陣。お小姓衆が先駆けとなって城壁を打ち破り、攻め込んで、数時間散々に戦った。味方に十人ほどの負傷者が出た。信長の若衆として仕えていた岩室長門は、こめかみを突かれて討ち死にした。知らぬ者のない有能な人材だった。信長は長門の死を大変惜しんだ。

 

岩室長門は桶狭間の合戦で清州城から信長の小姓筆頭として付き従った六騎のうちの一騎でした。佐々政次千秋末忠の突撃時にも加わっていたようで彼は生還しています。(ということは、本稿でも触れた佐々・千秋の突撃は、信長の指示によるものであったことはほぼ確実と言っていいと思います。)

過去記事:桶狭間の佐々政次・千秋末忠の突撃

 

以下、永禄4年(1561年)のその他の主だった戦さです。

牛久保城の攻撃で初めて今川方は松平元康が自立の動きをしていることをつかみます。ちょっとボケっとしすぎの感がありますが、裏返せば前回投稿の永禄4年4月の「梅が坪城の戦」はしっかり「騙し戦」として機能したことが見てとれます。まさか弱小松平が織田と敵対しながら、さらに今川と戦うなど想像もしなかったのでしょう。そういう点からも信長元康とは既に桶狭間の段階から通じていた。とみて何ら不思議はない。と言えそうです。

 

次は永禄5年(1562年)、永禄6年(1563年)と続きます。