大河ドラマ「麒麟が来る。第20回「家康への文」関連地図」です。

いよいよ桶狭間の戦いですね。ドラマの流れはこんな感じです。

  1. 称念寺に戻り尾張の情勢を光秀に伝える左馬之助
  2. いよいよ尾張に進軍すると触れを出す今川義元
  3. 東庵と囲碁を打つ松平元康家康)は先鋒に指名されることを漏らす
  4. 西に進軍する義元。帰蝶信長に「策を講じませんと」と助けを出す
  5. 熱田で水野信元於大の方と会う信長と帰蝶
  6. 大高城に入った家康の元に於大の文が届く。迷う家康
  7. 越前から馬を飛ばす光秀。。
今回「おおーー!」と思ったのは水野信元を出してきたところ。
桶狭間は必ず事前調略があり、戦史にも記されていない何か裏があるはずと思っていたので、これはいいところついてきたな。
と思った次第です。
 
水野信元は桶狭間の戦いにおいて実は勝敗を分ける活躍をしたキーマンの一人と思ってます。この時は緒川城主で、以前投稿した「村木砦の戦い」でも信長は危ない橋を渡りつつ水野信元を助けていました。この時の「恩」が生きたのかもしれません。水野信元の立ち位置は非常に微妙で、この時も生き残りをかけて織田家と今川家。両天秤にかけていたことでしょう。織田・今川双方にとっても水野がどちらにつくかは非常に重要だったはずです。そしてこの時、この両家の要素にもう一つ「家康」という要素が加わります。
 
桶狭間の戦いと水野信元
 
【桶狭間の戦いにおけるそれぞれの位置から見た水野信元】
 
1)信長から見た水野信元
 味方になれば大高城、桶狭間を裏から突く友軍になりえる。絶対に欲しい存在。
 
2)今川から見た水野信元
 加勢しなくとも城に籠ってくれさえすれば背後から突かれる心配はない。
 ただし裏切られれば織田軍と挟撃に合う恐れもある。。
 
3)家康から見た水野信元
 義元を葬り去れば三河を奪還するチャンスが巡るかもしれない千載一遇の好機。
 母を通じて伯父が加勢すれば、その成就もありえる。
 万が一、失敗しても籠城し続ければ「私は関知していない」で伯父に罪をかぶせることもできるだろう。
 
4)水野信元から見た場合
 織田が勝っても今川が勝っても短期はしのげる。
 が、これまで織田に加勢してきた手前、今川が勝てばよい未来は想像できない。
 もしここで義元を取り除ければ家康が仮に戦死しても三河の奪還は図れるかもしれない。
 
1)3)4)はおおむね利害が一致している。
よって水野は開戦前は今川に従ったふりをし、合戦が始まったあと織田に加勢した可能性は極めて高いと思う。その証拠に桶狭間の後、鳴海城を引き払った岡部元信は駿河への帰途上で水野信近水野信元の弟)が守る刈谷城を攻撃している。桶狭間前には刈谷城は素通りしているので、合戦で何らかの報復に出る理由が生じた。と考えると辻褄が合う。
 
この推測を元に、水野はどのタイミングで加勢したかを考えてみた。
大高城の家康は、桶狭間で義元が攻撃を受けている、という報を聞いても城から動かなかったらしい。
これは、水野信元から「われらが奇襲をかけたら事が成るまでは城に軍を止め置いてくれ」というような指示があったのではないか?と推測する。これは信長も事前に示し合わせており、善照寺砦中島砦で頃合いを待っていたのではないか?
 
少し前に、信長公記や一般的に言われるルートで中島砦から義元本陣にむけて車で走ってみました。義元軍のいる山側から街道の信長軍は丸見えです。いくら雹のような雨が降ったとしても義元の本陣がある山の中腹まで直線的にたどり着くには丘を登り山あいを抜ける2本の道しかありません。特に現在高速道路の通る少し南ののぼり口には松井宗信他、前衛軍がびっしりいたはずです。なのでこれを突破するには何かもう一つ「イベント」がないと、本陣にたどり着くのは至難の業と思います。信長公記に「信長が善照寺砦についたのを確認した千秋季忠佐々政次は突撃を敢行し敗死した」と書いてあるのは、この難所をかく乱し、前面に引き寄せるための囮じゃなかったかと思います。でも、それだけでは突破できないのは信長のことですから分かっていたでしょう。なので、もう一つ内から崩すための作戦を用意していたのではないか?。これが水野軍の裏からの奇襲だったのではないか。と思った次第です。
関ヶ原の合戦配置図
 
北西の織田軍に向けて陣を構えていた義元本陣。そこへ突然背後からの鬨の声。その対応に慌てる今川本陣付近に前衛軍も「なんだ?どこからの軍か!」となったのではないでしょうか?。山の向こうから湧き上がる鬨の声に信長は(しめた!)とばかり、「時はいまぞ!我に続け!」。挟撃を受けた今川軍は大混乱。雨が降ろうと振るまいと、これが寡兵でも本陣まで突き進む元からあった作戦だったのではないでしょうか。雨はたまたま降ってきて更に天が助けた。そして事前にこれを知っていた家康はあえて動かなかった。。
 
では。なぜ信長公記に水野の名前が出てこないのか?
それは信長公記が出版されたタイミングに関係があると思います。信長公記が世に出たのは秀吉の死のあと。家康の治世です。
桶狭間のはかりごとに家康が絡んだ、と連想させる記述は書かなかった(あえて省いた)とは考えられます。すでに水野信元もこの世にはありません。死人に口なしです。
 
いかがでしょう?
以上、私の個人的な「桶狭間」大胆予想でした。
 
次回はちょっと面白い桶狭間の地図を張り付けたいと思っています。
お楽しみに♪