最期の瞬間 | ハルタがいるよ!

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春をつれてやってきた男の子 ハルタの日記

お久しぶりです。
一年以上更新をしませんでしたが、みなさまいかがお過ごしですか?
タイトルを見てハルタに何かがあったのでは?!と驚かせてしまってごめんなさい。
ハルタは元気です。

 



こんな感じで!



今日は母の最期の瞬間のお話を書こうと思います。
ワタクシに関わる方々に、同じように知っていただくための文章になります。
ハルタのことではないので、興味のない方はこのままブラウザをそっと閉じてくださいませ。

ワタクシが結婚したときからずっと一緒に住んでいた母は、2020年6月10日午前8時44分に72年の生涯を終えて霊山へ旅立ちました。
弟夫婦とオトンとワタクシの4人で見送りました。
母が一番望んでいただろうと思われる、弟が傍にいてくれて喜んでいたことでしょう。

母は2回目の脳出血で右上肢と右下肢の機能が全廃し、車椅子の生活を余儀なくされていました。
それでもトイレは自分で行けるし、ワタクシは仕事をしているので日中様子が見れないため、デイサービスを利用したり、昼にヘルパーさんに入ってもらったりという生活をしばらく続けていました。

昨年秋の終わりごろから下痢をするようになり、定期的に通っていた町医者で整腸剤が出され飲んでみたもののあまり効果がない。
それより薬を飲む前よりひどくなったような気もする、と伝えると違うタイプの整腸剤が出され、それでもあまり効果はみられなかったのです。
世間は暮れになり風邪やインフルエンザが流行しだして、今病院へ行くのはどうかな~などと言いながら回避していると、あっというまに2月に。
ちゃんとした病院でみてもらったほうがいいな、と町医者ではなく総合病院へ。
そこで検査した結果、母は末期の大腸がんでした。

それもS字結腸にできた大腸がんが大動脈に浸潤していて、切り取ることが困難な状況でした。
大動脈を傷つければ即死です。
もし切り取れたとしてもすでにがんは肝臓に転移しており、これは切り取ることができないので、治すとしたら抗がん剤治療しかないと言われました。
でも体が動かせない母にとって抗がん剤治療は思うほど効果が見込めないことと、高齢の母が苦しむような治療になるわけで・・・

どうしますか?と聞かれました。
ワタクシはがんをそのままにして、緩和ケアで最期を看取ると決めました。

ドラマみたいに「余命は〇〇です」って言ってくれないから、「先生、あとどれくらいなんでしょうか?」と聞いたところ、3か月~6か月とのこと。
このとき2月の終わり。
母は先生の予想どおり、それから3か月と少しを生きて旅立ったのでした。

母は人工肛門をつける手術をしてから帰宅し、ワタクシは今までどおり会社に通いながら、前より少し重くなった母の介護に取り組んでいました。
もう少し状態が悪くなったら介護休暇をとって、母と残された時間を過ごすつもりでした。

世の中は新型コロナで大騒ぎ。
オトンはTV関係の業界にいるので、完全に仕事がなくなりました。
3月からずっと自宅待機です。
そのため、母に関する自宅でのやりとりは、全部オトンがやってくれていました。
ワタクシが心配せずに仕事を続けられたのは、自宅にオトンが居てくれるという心強さがあったからです。
なにか心配なことがあっても、LINEでちょいっと伝えれば、そのとおりにやってくれていました。
母がこのような状態にあっても、オトンという心の支えがあったため、ワタクシはいつものワタクシで居られたのだと思います。

時間はゆるやかに流れていました。
週末になれば弟がやってきて、大好きなプリンを食べて。
ワタクシはどうやってご飯を食べてもらうか、を常に考えていて、フードプロセッサーでいろいろな料理をクラッシュしてとろみをつける日々でした。

それでも迎えてしまう最期の日。

その日は訪問診療がある日で、ワタクシは事前に会社へ午前半休の届を出していました。
前日の夜はダラダラしていて、お風呂にも入らずうたた寝をしたあと3時頃目を覚まし、いつものとおり母の様子を見に行きました。
母は呼吸が荒くなっていました。
いつもと様子が違うので訪問看護ステーションの夜間連絡所に電話をしたところ、特にアドバイスは無く。
前日に訪問看護にきたときに変わった様子がなかったので、今の状況が想定できなかったのかもしれません。
枕が濡れるほど汗をかいていたので、熱中症になってしまったのではないかということで、体を冷やして様子をみることにしました。

オトンがベッドサイドに椅子を置いてくれたので、外が明るくなってくるまで横に座って様子を見ていました。
何かしゃべりたそうだったけど、入れ歯をしていないせいか言葉にならず。
それならと入れ歯を入れようとしたけど、自分でいれることすらできず。
息苦しそうにしている姿にいたたまれず、再度訪問看護ステーションへ電話して自宅へ来てもらうことになりました。
同時に弟にも電話をして、ヤバイから来てと伝えました。

看護師さんが到着したのが6時過ぎ。
血圧が測れないほど低下していたのと、血中酸素濃度は75%になっていました。
「どうしますか?」
と看護師さん。
外科から緩和ケア科へ転科するときに延命処置をしないという基本方針を伝えていたので、そのための質問だったのだと思います。

それでも、昨日まで普通だったのに。
(がんによる)痛みも訴えていなかったのに。
まだそんな時期じゃない、ただ呼吸ができないだけなんじゃないか、と思い救急車で病院へ向かうと決めました。

電話を受けて我が家へ向かっていた弟にも病院へ向かうよう連絡し、ワタクシはオトンと救急車に乗って病院へ。

その日我が家に訪問診療でくることになっていた主治医は、なぜか早朝から病院に居ました。
母が救急で運ばれるから来てくれたのかと思ったらそうではなく、自分の仕事が片付かず早朝から出ていたそうです。(真偽は定かでない)

すぐに診てくださり、いい状況ではないことを伝えられました。
その後入院ということで病室へ移動し、弟が病室へ付き添っている間に、ワタクシは病室の外で主治医とパソコンの画面を見ながら現状の説明を受けていました。

肝臓へ転移したがんがあっという間に広がって、肝臓のほとんどをがん細胞で埋め尽くしていたこと。
(2月に撮った画像とは全然違っていた)
肝臓がいつ破裂してもおかしくないほどひどいということ。
濃度の高い酸素を入れても、体が吸収してくれていないこと。
このまま行くと今日(早ければ午前中)、遅くても明日には逝ってしまうこと。
心臓は少しずつ動きが鈍くなってきていること。
それらの説明をひととおり受けました。


もう、終わりなんだ、と悟りました。


病室へ案内される前に(コロナの関係で)病室へは2人ずつ交代で入って~・・・なんて説明を受けていたのに、椅子は4つ用意されました。
ベッドに横たわる母を見守りつつ、ワタクシはLINEで母の友人へ連絡をしていました。

ほんの一瞬目を離した隙に母の口から茶色い液が出て、慌ててナースコールを押すと、看護師さんがすぐにきてくれました。
痰を吸引する器具で茶色い液を吸い取っていただき、その後また家族の静かな時間が。
母はさっきまで苦しそうに息をしていたのに、とても静かでした。
「息してる?」
「マスクが曇ってるから・・・」
ワタクシにはわかりませんでした。
酸素を生み出す装置の音しか聞こえませんでした。
「きっと私たちはいつ逝ったかもわからないんだろうね」
なんてワタクシが言ったときには、もう心臓はとまっていたようです。
少しあとに看護師さんが病室へやってきて、静かな声でナースステーションのリモートモニタでは心臓がとまっていること、しばらく様子をみていたが動き出す気配がないことを涙をこらえて伝えてくださいました。

言葉は出てこず、出てくるのは涙ばかり。
嗚咽がやっと出たころ、オトンがそっと寄り添ってくれました。
弟の泣き声もとまらない。


その後主治医から死亡宣告があり、今生のお別れとなったのでした。


母は女手一つでワタクシと弟を育てた人でした。
学歴はない、手先が器用なだけの貧乏人で、昼間はパートで夜は内職をしながら育ててくれました。
そんな苦労をした母を、結婚と同時に引き取って一緒に暮らせてよかったと思っています。
普通はラブラブ新婚生活を送る時期に、すでに母が居て。
オトンはどんな気持ちだったでしょう。
それに対して、一度も文句を言われたことがありません。
本当にうちのオトンは優しい人なんだと思います。

残念なのは孫を抱かせてあげられなかったことくらい。
それは来世での課題にしましょう。
母が次に生まれかわったときには、健康で金銭に苦労せず、たくさんの家族に囲まれて過ごせるように祈りたいと思います。


ワタクシはまたお母さんの娘として生まれかわるでしょう。
それまでしばらくお別れです。

ここまで育ててくれてありがとうございまいた。

お母さんに心配をかけないよう、ワタクシはワタクシなりに精一杯生きていきますので、見守っていてくださいませ。

 

 


それではまた会う日まで。