「日本への原爆投下は神の懲罰で、
731部隊に苦しめられたアジア人の復讐」
という記事が掲載されたのをご存じですか?
※「原爆投下、神の懲罰」と韓国・中央日報
「日本軍国主義へのアジア人の復讐」
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130523-00000089-san-kr)
この記事を書いたのが、韓国ではかなり有名な
ジャーナリストというから驚きです。
韓国メディアの日本たたきはいつものことですが、
これは少しいきすぎだと感じるのは
日本人なら当たり前のことでしょう。
長引く竹島問題や、
安倍首相の憲法9条改正に関する発言、
橋本大阪市長の慰安婦発言などが
影響しているのでしょう。
しかし、原爆投下が正当化されるような記事は
どのような事情があろうとも、
許されるはずがありません。
かつて、日本に原爆を落とした
アメリカ軍の中にも
原爆について悩み続けた人がいます。
1945年8月9日、
原子爆弾が長崎に投下され
7万4000人が死亡しました。
この写真をご存じですか?

「焼き場に立つ少年」1945年・長崎・撮影 Joe O'Donnell
原爆が投下された後の
長崎の火葬場で撮影された1人の少年。
背負っているのは、死んだ弟です。
弟を焼く順番を待ちながら、歯をくいしばる少年。
その口には、血がにじんでいたといいます。
この写真を撮ったのは、
アメリカ海兵隊・第5師団所属の
ジョー・オダネル軍曹。
彼の任務は、原爆の破壊力を記録することでした。

当時アメリカは、決められたカメラでのみ
撮影を許可していました。
しかし、オダネルは軍の命令に背き
持ち込んだ自分のカメラで密かに
30枚の写真を撮影していました。
その中の1枚が、「焼き場に立つ少年」です。
それらの写真は、公表されることなく
長い間封印されてきました。
オダネルは写真の入ったトランクを屋根裏部屋に置き
家族にも決して開けないよう話していました。
アメリカに帰国してから43年後、
オダネルが67歳のとき、
彼は突然トランクから写真を取り出し、
世間に公表をはじめます。
なぜオダネルは封印していた写真を
突然公表しはじめたのでしょうか。
2008年8月7日にNHKで放送された
「NHKスペシャル 解かれた封印
~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」
から、テープに残されたオダネル自身の
言葉と共にご紹介します。
軍の命令を受け、占領軍の一員として
長崎に入ったオダネルは、爆心地で暮らす人々を
軍に隠れてカメラに収めました。
オダネルが残した30枚の写真には、
破壊された長崎の町と、焼け野原で生きる
人々の姿が写されていました。
ある日、オダネルは、臨時の救護所で、
1人の被爆者と出会います。
その時の心境を語った
肉声テープが残されています。
オダネル:「私が見たその人は、これまで出会った
けが人とまったく違っていた。
彼には髪がなかった。まゆも鼻も耳もなかった。
顔と言える原型はなく、肉の塊だった。
彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』。
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った」。
オダネル:「(長崎で)この世のものとは思えないものを見た。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、
飢えている人、そして原爆症」。
オダネル:「なぜ人間が同じ人間に
こんな恐ろしいことをしてしまったのか」。
長崎を南北に流れる浦上川。
そのほとりで、オダネルは
一生忘れられない光景にであいます。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を1人の少年が歩いてきました。
少年は背中に小さな弟の亡骸を
背負っていました。
オダネル:「1人の少年が現れた。
背中に幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、
そっと炎の中に置いた。
彼は黙って立ち続けていた。
まるで敬礼をしているかのように」。
オダネル:「炎が彼のほおを赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇をかみしめていた。
そして何も言わず、立ち去って行った」。
帰国後、オダネルは長崎での記憶に
精神をさいなまれます。
オダネル:「被爆者たちの体をうごめくうじ。
助けを求める声。鼻をつく異臭。
私は長崎で見た光景を思い出すまいとした。
しかし、その光景は頭から離れず、
私をさいなみ続けた」。
オダネル:「眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終わらないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう」。
帰国してから3年後、オダネルは
アメリカ情報局に勤務しました。
そして大統領の専属カメラマンに抜擢されると、
ホワイトハウスで働きはじめました。
最初に担当したのは、
日本に原爆投下の決定をくだした
トルーマン大統領でした。
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか、
オダネルはあるときトルーマンに尋ねました。
オダネル:「大統領、
あなたは日本に原爆を落としたことを
後悔したことはありませんか。
彼(トルーマン大統領)は動揺し、
顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。
しかし原爆投下は私のアイデアではない。
私は前の大統領から単に引き継いだだけだ』」。
1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは偶然立ち寄った修道院で
飾られていた反核運動の彫像に出会います。
その全身には、被爆者の写真が飾られていました。
オダネル:「私は彫像を見て、衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、
彫像の全身に貼られていたのだ。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
私は何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった」。
オダネルは封印していたトランクを
43年ぶりに開け、写真を引き伸ばすと
全米各地で写真展を試みました。
しかし、原爆の写真を受け入れる施設は
ほとんどありません。
本に掲載してもらおうと、
全米の出版社をまわりましたが
それもすべて断られました。
終戦から50年目の1995年、
スミソニアン博物館で
ようやく決まった写真の展示も、
退役軍人の激しい反対で
中止に追い込まれました。
太平洋戦争を日本と戦った
退役軍人のほとんどが、未だに原爆投下の
正統性を信じているのです。
オダネルの家には嫌がらせの手紙がくるようになり、
地元の新聞にはオダネルを批判する投書が
増えるようになりました。
オダネルの妻は、夫の行動が理解できず離婚しました。
オダネル:「誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし母国の過ちをなかったことにできなかった」。
オダネル:「私は死の灰の上を歩き、
この目で惨状を見たのだ」。
オダネル:「確かに日本軍は
中国や韓国に対してひどいことをした。
しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。
戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要が
あったのだろうか」。

「Three Brothers Nagasaki」1945年・長崎・撮影 Joe O'Donnell
オダネル:「1945年、
あの原爆はやはり間違っていた。
それは100年たっても間違いであり続ける」。
オダネル:「歴史は繰り返すというが、
繰り返してはいけない歴史もあるはずだ」。
嫌がらせの手紙や投稿が続く中、
ある日、1通の投稿がきます。
それには、こう書かれていました。
「オダネルを批判する人たちに言いたい。
原爆とは何だったのか、
図書館に行って勉強してから批判しろ」
投稿をしたのは、オダネルの息子でした。
母国アメリカに原爆投下の意味を問い続けたオダネル。
オダネルが死んだ後、息子がその意思を継ぎ
オダネルの30枚の写真をネットで公開しました。
相変わらず批判が多くある中、
オダネルの時代にはなかった
原爆投下を疑問視する声も少しずつ出てきています。
オダネル:「たとえ小さな石であっても
波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも届く日がくる。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。
そしていつか、誰もが平和を実感できる日がくると信じる」
今回の韓国の新聞記事のように
どんな理由をつけようとも
原爆投下が正当化されるようなことが
あってはなりません。
こういった間違えた考え方がなくなるよう
私たち日本人は、被爆国として
戦争の記憶を風化させずに
原爆の恐怖を語り継いでいく
義務があるのではないでしょうか?

Joe O'Donnel(1922年-2007年)
「NHKスペシャル 解かれた封印
~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」は、
YouTubeで見ることができます。
ぜひ、ご覧になってください。
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