勇者なキミたちへ。
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三浦春馬作品「ふれる」。
俳優として
二〇一三年
➖三浦さんにとっての俳優としての原風景を教えてください。
この本の撮影で久しぶりに京都へ行き、懐かしい気持ちになったんです。京都は子役時代の思い出の多い場所で、小学校6年生くらいのときに初めて主役を演じた『森の学校』という映画は丹波篠山が舞台だったし、時代劇の撮影で太秦にもよく行ってました。
当時の記憶とセットになっているのが、マネージャーだった村木勲さんの存在です。小学校に入って間もない頃から、撮影のあるときはひとりで実家の茨城からバスに乗って都内へ通っていたのですが、東京駅に着くといつも村木さんが待っていて「春馬!」と声をかけてくれるんです。京都みたいに遠くへ行くときも、都内での撮影も必ず同行してくれました。撮影の待ち時間にプロレスごっこの相手をしてくれたりもして。
➖マネージャー以上の存在だったのですね。
父親みたいに頼もしかったです。
15歳くらいのときに、今の事務所へ移ったときも村木さんは後押ししてくれました。仕事的に迷いを感じている時期でもあったのですが、「俺たちのことは気にせずに、新しいところで頑張ったほうがおまえのためになる」と言ってくれたんです。その後は忙しさと遠慮もあって、長いこと連絡を取れずにいました。そしたら2012年のあるとき、ご家族から急に連絡が来たんです。「実は今、村木は入院していて先が長くないのですが、生きているうちはあなたに教えないでくれ、というふうに本人から言われています。だけど、私たち家族にいつもあなたの話をしているから、本当はとても会いたいのだろうなと思って、怒られるのを承知のうえで連絡させてもらいました」って。
➖それは驚いたでしょう。
病院へ駆けつけると、村木さんのほうも「どうしてここに春馬がいるんだ」って言いたげな、驚いた表情をしていました。あとから聞いたら、その頃は話をするのもやっとだったらしいのですが、僕が行ったときは偶然にも意識がはっきりしていて、言葉を交わすこともできました。やせ細った村木さんを前にしたら、今まで連絡しなかったことを後悔して子どもみたいに泣いてしまって。やっぱり僕は、村木さんの前ではいつまでたっても子どものままなんです。
その時期、地球ゴージャスの『海盗セブン』という舞台が控えていて、村木さんは稽古が終わる頃に亡くなりました。最期に僕の舞台を観てほしかったのだけど、その願いは叶いませんでした。
➖病院で再会したとき、どんなお話をしたんですか?
村木さんはか細い声で「絶対に焦っちゃダメだぞ」と言ってくれたのですが、その言葉を今もことあるごとに思い出します。毎年お盆の時期になると、村木さんの生まれ故郷の東北へ、両親と一緒にお墓参りに行くんです。きっとこの先もずっと続いていく行事になると思います。俳優としての基盤を作ってくれた人ですし、村木さんがいてくれたおかげで、僕は俳優という仕事の楽しさを知り、今もこうやって続けることができているのだと思います。
➖そんな三浦さんが今、俳優として大事にしているのは、どんなことなのでしょう。
俳優は言ってみれば人気稼業なので、注目されることはありがたいし、悪い気もしません。だけど決して浮かれちゃいけないな、とはいつも思っています。
「俳優・三浦春馬」とはどういう存在なのか、昔よりも一歩引いた目で見ようとしている自分もいます。今の僕が大切だと思っているのは、嘘のない真摯な態度を示すこと。
たとえば僕がファッションイベントに招待されてランウェイを歩くとき、どうしてここにいるんだろうと不思議な気持ちになったりもします。一方で、貴重な経験をさせてもらえることをありがたいと思っているのも、正直な気持ちです。僕が出ることによって出られなくなる人も当然いるわけだから、不満に思っている人ももしかしたらいるかもしれない。そこで僕のできること、やるべきことは、感謝の気持ちを言葉や態度できちんと示すことに尽きると最近強く思うようになりました。かっこつける時代はもう終わったのかなって。
「かっこいいね」と言われるのは、、、
次投稿に続きます。
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ありがとう、春馬くん。