こんにちは。はるのあきです。


一つ前の記事で、「乳がんキロク、食事の話に戻ります」と書いたのですが…


コメントをいただいて、先に別の記事を書くことにしました。



が、食事について、つい最近見たYouTubeで、


『原則、この4つを取っていなかったら、大きい病気にはならない』


というお話があったので、未病の方はもちろん、がん患者の方、再発予防の方のためにもシェアさせていただきます↓



↑10分頃の所に答えがあります。



もう書いちゃいますね!

①小麦粉 ②植物油 ③乳製品 ④砂糖


↑食べない方がいい順番だそうです。

ご参考になさってください。




父との話も聞かせてほしいというコメントをいただきました。


それを読んで初めて、そういえば、当時、父のことがめちゃくちゃストレスだったじゃん!と思い出しました。


なぜ、忘れていたんだろうと思いましたが…、感情は、しっかりと感じきると消化されるということを思い出し、納得しました。


私は、父に対しては、泣いたり怒ったり、めちゃくちゃ感情をぶつけていたんです。


また、お恥ずかしい話を書いてしまいますが、少しでも誰かのご参考になることがあれば幸いです。



父のことを書こうと振り返ると、私は父のことは母と兄家族に任せっきりで、詳細を時系列で追うことさえ出来ないと改めて気づき、愕然としました。

そもそも、遠く離れた所に住む私に心配をかけまいと内緒にし、配慮してくれていたことも多々あったようです。

母からの電話で、父が「もういつどうなってもおかしくないから、覚悟しておいてね」という話を聞いたこともありました。

母の時とは違い、今すぐ飛んでいこうとは思わず、言われた通り、覚悟だけしていました。薄情な娘です。結果的に危惧に終わりましたけどね。


父は、狭心症、肝炎、肺気腫等を患っていました。

私は結婚以来、年に一度は帰省していましたが、コロナになり、初めて、2020年は帰省出来ずでした。

母のがん告知を聞き、2021年に帰省した時には、父は常にベッドの上で鼻から酸素吸入を行い、在宅医療を受けていました。


父は、一日中、ほぼベッドの上で、母や兄家族に偉そうに命令し、ずっとテレビで、録画したものを見続けている。母が、がんだとわかっても、指図命令することは相変わらずでした。


酸素ボンベを携帯しながら、元気に活動し続けている方は、世の中に沢山いらっしゃいます。

父は、用を足すのも、お風呂に入るのも、自分で歩いて行くことが出来ました。

トイレで用を足すのは、大の時だけで、小の時は、ベッドの上で、尿瓶に自分でします。それを片付けるのは、家族です。


元々、人と話すのが好きで、口がとても達者な父は、私が帰省してきたことを幸いに、話し相手が出来たと思ったのか、私に喋り続けました。

楽しい話ならいいのですが、ほとんどが、家族の愚痴や悪口、何度も聞いたことのある過去の嫌な出来事の回想ばかりです。

一日中、ベッドの上にいるのですから、そうなるのも仕方がないのでしょうが、母の病状に気を揉んでいる私には、怒りが増すばかりでした。


母や兄はそんな父に慣れているのでしょう。
何を言われても聞き流すのですが、私はとてもイライラしました。

もっと自分でできることは自分でやれ!
人を使うな!
母に、家族に、もっと優しくしろ!
昔のことをいつまで言ってるんだ!
いい加減にしろ!

最初は我慢していた私も、ついに爆発しました。

母も兄も優しく、兄嫁さんは言いたくても言えないだろうし、こんな父の態度は、姪っ子や甥っ子にも良くないし、私が言わなければ誰が言うんだと正義感にも燃えてしまい、散々、言いたい放題言いました。

こんなことを言わなければならないこと自体、情けないし、何を言っても、父は全く聞き入れず、言い返してくるばかりで、私は泣きながら、喚き散らしていました。

…これを、実家で母と生前整理している間、何度も繰り返していました。恥


在宅医療の医師や看護師も、お父さんは頑固で言うことを全然聞いてくれない…と、こっそり私に言いました。

本当は受けられるはずの助成の申請をしようとしないと言うのです。私は初耳でした。


父は元自営業で、国民年金のみの受給で、母は厚生年金を受給していました。
もし、母が亡くなったら、世帯収入が著しく減ります。兄夫婦の負担が増大します。

幸い、元ケアマネージャーの友人がいたので、LINEで彼女に相談しました。

医師の言っているのは、障害者手帳の申請のことではないか、それに今後のことを考えると、介護保険のサービスも出来る限り利用した方がいい。
そして、それらはすべて、申請しないと何も始まらない、ということでした。

すぐに、兄嫁さんと協力して、申請作業を始めました。


病院に行って診断をしてもらったり、介護関連の面談を受けたりしないといけないのですが、案の定、父が猛反対します。

兄夫婦は、父は私の言うことなら聞くと言っていましたが、言い聞かせるのも私が怒鳴り声をあげて、渋々聞くという始末で、本当に大変な作業でした。


結果、まさかの障害者手帳1級でした。もらえたとしても、もっと低い等級だと思っていました。
何なら、父の仮病の可能性さえあると思っていました。日頃の態度がとても横柄だったので…。

父は、本当に呼吸するのが辛かったんですね。だから、何をするでも人に頼んでいたんですね。
トイレ(大)とお風呂だけは、人に負担をかけまいと、頑張っていたんですね。

今、冷静になると、そう思いやれるのですが、この時は、ただビックリして、医療負担ゼロになって良かったーと思っただけでした。


少し補足すると、コロナで購入する人が増えたという指先で酸素濃度を測るオキシメーター。

父はそれで、いつも計測していましたが、そんなに悪い数値ではなかったので、大したことはないと皆が思い込んでいたのです。
でも、専門の病院で、動脈血で測ると、医師もビックリのかなり低い数値でした。
同じような症状の方、病院の受診をおすすめします。


介護保険の面談で、調査員の方の質問に対して、自分をよく見せようとして、出来ないことも出来ると言うことがよくあるけど、その時は、黙って聞いていて。その後で、お父さん抜きで面談があるから、その時に本当のことや介護で困っていることを調査員の方に伝えるといいよ。

…と予め友人にアドバイスをもらっていたのですが、本当にその通りでした。
聞いてなかったら、調査員さんの前でも、父との言い合いが始まってしまうところでした。


正式な認定がおりるには、3週間くらいかかったのですが、その前に簡易診断で要介護2とわかり、先駆けて、ベッドのレンタルなどを始めました。

それまでは、普通のベッドだったのが、とてもクッション性の優れた高機能な電動ベッドに変わり、本人も介護する側もかなり楽になりました。
あんなに反対していた父も喜んでいました。

引き続き、デイサービス等は断固拒否でしたが、こういった福祉用具のサービスだけでも、本人も家族も少しでも快適な在宅生活ができるようになるので、手続き等は大変でした(兄嫁さんに感謝!)が、申請して本当に良かったです。


元ケアマネージャーの友人のアドバイス、当時のLINEから転載↓

頑固親父を装ってるけど、本人は結構しんどいんですよ、だからよけいに意固地になっているのかも知れませんね。
家族の声掛けの仕方が変わると案外お父さんも素直になるかもね。
回りの皆さん役者を演じてみるとホントに面白いよ😉✨
連日の介護お疲れ様です。
いっぱい親孝行してね!
遠距離介護を許してくれる旦那さん他家族に感謝ですね。


彼女のアドバイスのおかげもあって、私もケンカばかりでなく、両手で父の手を握って、優しく話しかけると、素直に聞き入れてくれることが増えていきました。
本当に、友人には沢山助けてもらいました。感謝してもしきれません。


障害者手帳ももらい、介護の認定も受けて、父に対する母の心配も減り、本当に良かったです。

その頃、母は、黄疸がでて、胆管の通りを良くするステント手術を受けました。手術後にせん妄なども見られ、心配しましたが、その後、薬の調整も上手くいき、医師に言われていた余命も伸びたのです。

なので、安心して、一旦、私も自宅に戻ったのですが…。その後は、ブログに書いた通りです。


母の葬儀の後は、四十九日法要に出席せず、初盆に帰省し、その時に初めて、私自身が乳がんになったことを兄夫婦に告げました。
コロナを言い訳にして1周忌にも出席せず、三回忌に出席しました。

三回忌の時に父に会ったのが、私が生きている父に会った最後になりました。
父は、多少、か細くなりましたが、相変わらずのお喋りでした。内容も相変わらずです。

私は、ちょっと面倒に思ってしまい、あまり相手をしませんでした。
短い滞在期間だったのですが、帰る時に、両手を握り、目を見て、当たり障りのない別れの挨拶をしました。

兄に、父が私の帰省をとても楽しみにしていると聞いていたのに、私はそんなぞんざいな態度をとってしまいました。…それが最期だったのに。

その後、父は急速に衰えていったようです。私のせいかもしれません。

大も小もトイレに行かなくなったそうです。母とは真逆ですね。
夜中でも大声で家族を起こして、用を言いつけたり、大した用事もなかったり…。
兄家族はとっても大変だったようです。


母が亡くなってから、父に猛反対されながらも、共働きの兄夫婦ですので、昼食の介助等の為に、お昼の数時間だけヘルパーさんに来てもらっていました。ヘルパーさんも父の態度に困るようになっていきました。

施設に入りたくない、デイサービスにも行きたくない、それは一貫した父の希望でした。
でも、兄家族にも生活がありますから、数ヶ月耐えた後、父を騙すようにして、ようやく施設へ入居させることができました。
 

そして、それから2週間ちょっとで、突然、父の訃報が届きました。

施設の方の夜の見回りの時、もう息がなかったそうです。
誰も最期を看取ることが出来ませんでした。

兄は施設に入れたことをとても後悔していて、気の毒でした。
兄も兄嫁さんも子ども達も、母のことも含め、これまで十分によく頑張ったと思います。
父のことは、私は本当に何もできず、申し訳なさでいっぱいです。

せめて、三回忌の時、ゆっくりと父の相手をすれば良かったと、後悔するばかりです。

まだ間に合う皆さんは、後悔のないように、ご両親のこと大切になさってくださいね。



コメントをいただいた方のおかげで、こうして、父のことを改めて振り返り、気づいたことが多くありました。

特に、母の介護中、あんなに怒り泣き喚いて、ストレスだーと思っていましたが…

父のおかげで、私は母のことで泣きたくても泣けないストレスを発散できていたんだと、今日、気づくことが出来ました。

何がどうなって繋がっているのか、後になって気づくことって、結構あります。

このブログを書くようになって、私は沢山の気づきを得ることが出来ました。

特に、いただいたコメントから気づかせていただくことが本当に多くあります。
ありがとうございます♪


散々、父の悪口をここで書いたのですが…
元気な時の父は、とても優しい父でした。

特に、うちの長男は初孫で、年子で次男も生まれたのですが、里帰り出産から始まり、夏休み等、長期の休みの時は長く帰省して、いっぱい遊んでもらいました。

私は両親に子ども達を見てもらって、ゆっくり過ごしたり、友人に会って楽しむことができました。

今朝、たまたまアンパンマンの主題歌が始まる時間にテレビをつけ、父のそんな面も多々あったことを思い出して、改めて感謝しました。

ありがとう、お父さん。


長々とした文章、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

はるのあき