松永春奈ってどんな人?

 





 

 

 

 

 

 

当ブログへお越しくださり、

ありがとうございます。

 

 

 

 

私は機能不全家族で育ち、

虐待を受けて育ちました。

 

 

 

 

 

アルコール依存症で働かない父
虐待する母
重度障害者の妹

 

 

 

 

 

親ガチャ失敗、

毒親育ちという言葉がぴったりな私。

 

 

 

 

重度障害を持つ妹は年子。

 

 

 

 

母は、

私に妹の世話を要求するようになります。

 

 

 

 

今問題視されている、

ヤングケアラーだったのです。

 

 

 

 

小学校三年生の私の誕生日、

父と母の離婚が成立。

 

 

 

 

 

その後は母子家庭で育ちました。

 

 

 

 

 

小学校高学年ごろになると、

妹が寄宿舎に入ります。

 

 

 

 

 

すると母は、

私には無関心となり…・

 

 

 

 

家に帰ってこない日々が続きました。

 

 

 

 

 

食事もなく、

いつも乱れた服装の私。

 

 

 

 

 

歯磨きの必要さを教えてもらえず、

虫歯だらけの歯。

 

 

 

 

 

母がいないことで、

初潮に対する知識がなかった私。

 

 

 

 

 

 

それが災いし、

学校で血まみれになったのです。

 

 

 

 

 

小学校を卒業するころの私は、

非行に走るようになりました。

 

 

 

 

 

中学生時代の私は、

警察沙汰は当たり前の非行少女。

 

 

 

 

 

飲酒喫煙も覚え、

心の虚しさを埋める毎日。

 

 

 

 

 

自傷行為
自殺未遂
OD

 

 

 

 

 

 

繰り返す空虚感に、

存在意義を見出せずにいました。

 

 

 

 

 

19歳になると、

母がうつ病に。

 

 

 

 

そして、

母親は自殺をしてしまいます。

 

 

 

 

 

父の実家に母の死を知らせに行くと、

父も死んでいると知らされ。

 

 

 

 

絶望でした。

 

 

 

 

 

その後すぐ、

妹も死に。

 

 

 

 

 

私は二十歳にして、

天涯孤独となったのです。

 

 

 

 

 

 

その時の状況はYouTubeで話しています

 

 

 

 

 

 

 

機能不全家族で育ったことから、

恋愛も上手くいかず。

 

 

 

 

 

多くの人を傷つけてきました。

 

 

 

 

 

そして、

25歳でパニック障害発症。

 

 

 

 

 

同時に鬱にも悩まされました。

 

 

 

 

 

さらには、

子宮頸がんと甲状腺がんにも罹患し。

 

 

 

 

 

私は、

甲状腺全摘手術を受けました。

 

 

 

 

 

不幸続きの私でしたが、

今の私は自分を不幸だと思っていません。

 

 

 

 

 

自身の経験は、

決して無駄だと思ったこともないのです。

 

 

 

 

 

それは、

過去の私と同じように苦しむ人に向けて、

生きるヒントを与えることができるから…ニコニコ飛び出すハート

 

 

 

 

 

 

 

松永春奈の活動

 

 

 

 

 

 

 

 

私は当ブログとYouTubeを通し、

生きづらさを抱える人に向けて、

生きるヒントを提供しています。

 

 

 

 

 

当事者だからこそわかる、

その心の苦しみ。

 

 

 

 

 

当事者にしか分からない、

心の虚無感。

 

 

 

 

孤独と絶望を感じ、

生きていることに意味を見出せない人へ…・

 

 

 

 

 

そんなあなたに向けて、

生きやすさを与えられたら幸いです。

 

 

 

 

 

私の経験が誰かの役に立てるのであれば、

あなたの経験も誰かの役に立てるはず。

 

 

 

 

 

どんなにつらい経験も、

無意味ではないのです。

 

 

 

 

 

アメブロは毎日投稿しているので、

生きづらさを感じるあなたの拠り所にしてください。

 

 

 

 

 

私は生きづらさを感じ、

多くの心理学の本を読みました。

 

 

 

 

この学びを活かし、

あなたの苦しみを払拭するお手伝いをさせてください。

 

 

 

 

 

過去にとらわれているあなたが、

今を幸せに生きることを願って…ハート飛び出すハート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松永春奈のヒストリー

 

 
 
 
1982年(0歳)

 

東京都品川区で誕生

 

 

1984年(1歳10ヶ月)

脳性麻痺を起こした妹が、

健常者から重度障害者となる

 

東京都足立区へ転居

 

 

1985年(3歳)

虐待を受け始める

障害者の妹の介護も強制されるように

 

 

1991年頃(9歳)

私の誕生日に両親離婚

 

 

1994年(12歳)

飲酒・喫煙などの非行に走る

 

 

1996年(14歳)

自傷行為・OD・自殺未遂

不登校・転校

自律神経失調症と診断を受ける

 

 

1998年(16歳)

高校入学・自主退学

自殺未遂

 

 

1999年(17歳)

人間関係のストレスで、

帯状疱疹発症

 

 

2000年(18歳)

人間関係のストレスで、

盲腸発症

 

 

2001年(19歳)

アルコール依存症になる

うつ病治療中の母が自殺

 

 

2002年(20歳)

父と妹が他界

ギャンブル依存症になり、

100万円近い借金を作る

 

 

2008年(26歳)

産後二ヶ月でパニック障害発症

産後うつも併発

後に季節性うつに

 

 

2012年(30歳)

調停離婚成立

子どもの親権を持ち、

シングルマザーになる

 

 

2013年(31歳)

再婚

ウェブライターとして活動する

 

 

2015年(33歳)

出産

 

 

2016年(34歳)

子宮頸がんの初期がんである、

上皮内がん発症

子宮頸管円錐切除手術を受ける

 

 

2017年(35歳)

甲状腺機能低下症の症状に苦しむ

ほぼ寝たきり状態

 

 

2018年(36歳)

甲状腺乳頭がんの診断を受け、

甲状腺全摘手術を受ける

 

ワードプレスブログ開設

(月間訪問者数1万人超え、月間PV数13,000超え)

YouTube開設

(2022年2月8日現在 チャンネル登録者数1,401)

 

10年服薬したデパスの断薬開始

 

 

2019年(37歳)

精神薬を完全断薬する

 

 

2020年(38歳)

アメブロ開設

(2022年2月8日現在 フォロワー348人)

 

 

2021年(39歳)

TikTok開設

(2022年2月8日現在 1,355フォロワー)

 

 

 

 

 

 

松永春奈をもっと詳しく知りたい方へ

 

 

 

 

 

 

私は、

機能不全家族で育ちました。

 

 

 

 

父親はアルコール依存症で、

仕事へ行かない毎日。

 

 

 

父には百万円以上の借金も

ありました。

 

 

 

母親は私に虐待。

 

 

 

 

そして、

唯一のきょうだいは重度障害者。

 

 

 

 

私は、

きょうだい児(病気や障害を持つ子どものきょうだいとして育つ子ども)であり、

ヤングケアラー(病気や障害のある家族の介護や世話をする子ども)として育ちました。

 

 

 

 

父は毎日泥酔、

母は毎日ヒステリックで私を虐待、

妹は重度障害者。

 

 

 

 

私が家族間で対等に話せる人は、

誰一人としていませんでした。

 

 

 

 

小学生になると、

父と母は離婚。

 

 

 

 

私はアルコールに溺れる父を、

毛嫌いしていました。

 

 

 

 

それでも本音は、

優しい父が大好きで。

 

 

 

 

その反面父を好きだと認めてしまうと、

母に捨てられるという恐怖心が常に心を支配し。

 

 

 

 

働かずに飲酒する父を罵倒する、

母に同調。

 

 

 

母の機嫌を取るようになっていたのです。

 

 

 

 

大好きな父が母に罵倒され、

背中が小さくなる様子を見て苦しむ日々。

 

 

 

 

自分の父親は最低な奴だと思い込むことで、

自分と母を正当化しました。

 

 

 

 

それは、

母に捨てられないために。

 

 

 

 

自分の居場所を確保するために、

そうせざるを得なかったのです。

 

 

 

 

母は妹を養護学校へ送り出した後、

17時まで事務の仕事をしていました。

 

 

 

 

母の味方でいるために、

何よりも私の居場所を無くさないために、

働かない父を見下す毎日。

 

 

 

 

小学二年生になり、

私はとうとう痺れを切らします。

 

 

 

 

これ以上、

父を罵倒する母を見たくない。

 

 

 

 

母に罵倒され、

酒を飲み続ける父も見たくない。

 

 

 

 

母と一緒になって、

父を悪く言う自分にも嫌気が差すのです。

 

 

 

 

 

「お母さんが辛いなら、離婚していいよ。お母さんに着いていくから」

 

 

 

 

 

母に離婚を勧めた私。

 

 

 

 

本当は、

離婚なんてして欲しくありません。

 

 

 

 

 

自分の心と居場所を守るため、

最善の選択だと思い込んでいたのでしょう。

 

 

 

 

 

父と母が離れることで、

私の苦しみも軽減すると思ったのです。

 

 

 

 

 

母に着いていくことを決意したのは、

裏切り者だと思われたくなかったから。

 

 

 

 

母一人に妹の世話をさせてはならないという、

変な正義感も邪魔をしました。

 

 

 

 

 

障害者というだけで、

多くの大人に優しくされる妹。

 

 

 

 

 

私はいつも、

妹の引き立て役。

 

 

 

 

妹のお世話をする、

優しいお姉ちゃんでいなければならなかった。

 

 

 

 

多くの葛藤を感じ、

幼少期を過ごしていたのです。

 

 

 

 

私が母に捨てられる不安を感じた原因は、

過度な虐待を受け育ったから。

 

 

 

 

それは、

冬の寒い日。

 

 

 

 

三歳頃だった私は、

大好きなキティーちゃんの絵が描かれている、

真っ赤なトレーナーを買ってもらいました。

 

 

 

 

帰宅すると、

私が母の機嫌を損ねてしまい。

 

 

 

 

キティーちゃんのトレーナーと一緒に、

真冬のベランダへ追い出されました。

 

 

 

 

父と母と妹の笑い声が聞こえる明るい部屋。

 

 

 

 

一歩踏み出せばその部屋に入れる距離なのに。

 

 

 

 

 

ベランダの鍵は閉められ、

心も体も一人ぼっち。

 

 

 

 

 

暗く寒いベランダで、

トレーナーを抱きしめて泣きました。

 

 

 

 

どのくらい追いやられていたのか記憶にはありません。

 

 

 

 

 

真冬の夜のベランダですから、

当然トイレに行きたくなります。

 

 

 

 

母に怒られるのが怖く、

トイレに行きたくても一人耐えました。

 

 

 

 

しかし我慢ができず、

おもらしをしてしまったのです。

 

 

 

 

それに気付いた母は、

私を強く叱りました。

 

 

 

 

躾と称し、

狭い押し入れに閉じ込められたことも数え切れません。

 

 

 

 

母の機嫌を損ねる発言をすると、

突然殴られることもしょっちゅうです。

 

 

 

 

 

「お前はこの家にいなくていい」

 

 

 

 

「役に立たないアイツ(父親)と一緒だ!」

 

 

 

 

 

「荷物をまとめて出て行け!」

 

 

 

 

 

 

物心ついた頃から、

ずっと言われてきました。

 

 

 

 

私は、

暴力や暴言といった虐待だけでなく。

 

 

 

 

妹の介護も、

半ば強制的にやらされてきました。

 

 

 

 

妹は大事に大事に育てられているのに、

私は粗末な扱いばかり。

 

 

 

 

障害のある妹をいじめ、

時に暴力を振るった私。

 

 

 

 

そうすることでしか、

自分の感情を発散できませんでした。

 

 

 

 

父と母は調停をし、

裁判長が定めた私の誕生日に離婚が成立。

 

 

 

 

父と離婚すると、

母の虐待はエスカレート。

 

 

 

 

小学校高学年頃になると、

自宅に帰らない母を待つ日々。

 

 

 

 

このころの妹は寄宿舎に入舎していたため、

私はいつも家でひとりぼっち。

 

 

 

 

帰らない母を待ち侘び、

0時過ぎまで起きて待ち続けました。

 

 

 

 

 

母が家に帰らない理由は、

彼氏と会っていたから。

 

 

 

 

母は娘である私より、

彼氏との時間を優先していました。

 

 

 

 

その事実がわかったのは、

母の日記をこっそり読んでしまったから。

 

 

 

 

待っても待っても、

母は私の待つ家に帰ってこない。

 

 

 

 

朝起きて玄関へ行くと、

そこに母の靴はありません。

 

 

 

 

 

「お母さんはいつも、どこで何をしているの?」

 

 

 

 

 

「どうして帰ってこないの?」

 

 

 

 

 

 

そう質問しても、

具体的に答えてくれません。

 

 

 

 

盗み読みした日記から、

彼氏といることぐらいは理解しています。

 

 

 

 

それでも私は、

母の口から真実を聞きたかった。

 

 

 

 

読まなきゃ良かったという後悔と、

読んで正解だったという気持ち。

 

 

 

 

この日から私は、

少しずつ非行に走るようになりました。

 

 

 

 

どんなに母の愛を求めても、

母はそれには応えてくれない。

 

 

 

 

母の機嫌を損ねれば暴力を受け、

妹が寄宿舎から帰ると奴隷のように介護をさせられ。

 

 

 

どこにも、

私の居場所なんてありませんでした。

 

 

 

 

小学校高学年になると、

私は初潮を迎えます。

 

 

 

 

その時ですら母はいなく、

私は対処の仕方が分かりませんでした。

 

 

 

 

学校で血まみれになり、

惨めな思いをした私。

 

 

 

 

母に対して、

憎悪の気持ちが芽生えるようになったのです。

 

 

 

 

中学生になると、

非行がエスカレート。

 

 

 

 

学校を巻き込み警察沙汰。

 

 

 

 

何度も何度も繰り返しました。

 

 

 

 

警察署へ連行されるたび、

「またお前か」と言われるほどの常連に。

 

 

 

 

私は、

母から離れたかった。

 

 

 

 

少年院という存在を知り、

そこに入りたいと何度も思ったのです。

 

 

 

 

非行は私にとって快楽であり、

母への復讐でもあった。

 

 

 

 

非行を繰り返せば、

見知らぬ大人は私に注目をしてくれる。

 

 

 

もちろん母も。

 

 

 

 

孤独を感じながら育った私は、

良くも悪くも注目されたかった。

 

 

 

 

気にかけて欲しい、

私という存在を。

 

 

 

 

自分という存在を、

認めて欲しかった。

 

 

 

 

努力と我慢、

言葉にできない苛立ち。

 

 

 

 

憎悪の気持ちで張り裂けそうで、

自分を制御することに精一杯。

 

 

 

 

不登校になった、

中学2年。

 

 

 

 

何もかもが嫌になりました。

 

 

 

 

不登校の原因は、

通っていた学校が荒れていて怖かったから。

 

 

 

 

実際に、

男子から暴力を受けたことがあります。

 

 

 

 

保育園の頃からいじめも受けていて、

集団生活に恐怖を覚えたのです。

 

 

 

 

この頃は失恋も重なり、

登校に対して強い拒絶感が生まれました。

 

 

 

 

それでも頑張って通学していましたが、

過敏性腸症候群の症状に悩み出します。

 

 

 

 

妹の検査の付き添い時、

ついでに私も診察を受けることにしました。

 

 

 

 

結果、

自律神経失調症と診断。

 

 

 

 

学校へ通いたくないのに、

それを無理強いする母。

 

 

 

 

頑張って通学するも、

学校を目の前にすると強い腹痛が私を襲うのです。

 

 

 

 

家でも学校でも、

穏やかに過ごしたいだけなのに。

 

 

 

 

保育園から続くいじめ、

家では妹の介護、

母からの虐待と育児放棄。

 

 

 

 

どこにも居場所なんてない。

 

 

 

 

私が「不登校児」であることに、

母は毎日怒りました。

 

 

 

 

そして、

転校の手続きを取ったのです。

 

 

 

 

転校しても私は、

周りの友達と上手に付き合うことができず。

 

 

 

 

家にいることも嫌になり、

家出を決行。

 

 

 

 

中学校三年生の秋から、

再度不登校になります。

 

 

 

 

 

「このままでは高校に行けない」

 

 

 

 

中学校三年生ですから、

進路調査が始まりました。

 

 

 

 

 

「偏差値30の〇〇高校ですら、合格できない」

 

 

 

 

担任から、

そう言われたのです。

 

 

 

 

私は母と担任を見返したく、

当初から希望していた偏差値45の高校を受験。

 

 

 

 

受験勉強のため、

図書館に毎日通い続けました。

 

 

 

 

中学校3年生の秋頃から、

寝る以外の時間は全て勉強。

 

 

 

 

母と担任を見返すべく、

全力を尽くしたのです。

 

 

 

 

その甲斐あってか、

見事希望校に合格。

 

 

 

 

担任からは、

奇跡的だと言われました。

 

 

 

 

しかし、

中学から不登校だった私は、

高校生活に違和感を感じ。

 

 

 

 

 

授業についていけなくなりました。

 

 

 

 

高校一年生の冬に自主退学し、

アルバイトもせずグウタラ過ごす毎日。

 

 

 

 

私にとっての高校合格とは、

単純に母と担任の言ったことを覆したかっただけ。

 

 

 

 

合格することで初めて、

母と担任に復讐できたように感じました。

 

 

 

 

高校を辞めると、

毎日のように将来について母が問い詰めるのです。

 

 

 

 

母にとっての私は、

世間一般の普通な子であって欲しかっただけ。

 

 

 

 

非行に走った娘を受け入れる器量が、

母にはなかったのかもしれません。

 

 

 

 

私が19歳になると、

母はうつ病に。

 

 

 

 

うつ病だった母に、

私は何度も言われた言葉があります。

 

 

 

 

 

 

「テメェのせいで、こんな病気になった」

 

 

 

 

「テメェにお母さんの何が分かる」

 

 

 

 

 

 

私が三歳の頃の写真を破り、

私という存在を否定し始め。

 

 

 

 

終いには。

 

 

 

 

 

「お母さんのせいで、あんたがこんなふうになってしまった。一緒に死のう」

 

 

 

 

 

そう言われました。

 

 

 

 

ベランダから突き落とされそうになったり、

突然暴力を振るわれたこともあります。

 

 

 

 

そんな母から逃げ出すかのように、

私は水商売を始めたのです。

 

 

 

 

 

毎日のように酒を飲み、

ホストに通い。

 

 

 

 

 

気づいたら、

お酒を飲まないと手が震えるようになったのです。

 

 

 

 

未成年でアルコール依存症になった私。

 

 

 

 

幼い頃に見た父の面影と自分が重なり、

この負の連鎖は自分が断ち切らないといけない、

そう気付いたのです。

 

 

 

 

 

短い闘病の末、

母は自殺。

 

 

 

 

母のお通夜はクリスマスで、

障害のある妹は「母が死んだ」という事実が分かりません。

 

 

 

 

母の生前、

妹は療育センターで生活をしていました。

 

 

 

 

そのため、

久々に会えた母に喜びを感じたのでしょう。

 

 

 

 

 

ニコニコしていました。

 

 

 

 

しかし、

今でも覚えています。

 

 

 

棺に入った母と最期の別れの時。

 

 

 

妹は、

母の顔に触れたのです。

 

 

 

 

この時の妹の顔は、

驚きを隠せない表情でした。

 

 

 

 

母が生きていた頃の、

温かく柔らかい感触しか知らない妹。

 

 

 

 

それが、

冷たくて硬い。

 

 

 

 

私には状況が理解できる力はあっても、

妹にその力はない。

 

 

 

 

そんな妹を見て、

自分の不甲斐なさに涙が。

 

 

 

 

感情の捌け口としていじめたこと、

申し訳なく思いました。

 

 

 

 

火葬は想像を絶する辛さでした。

 

 

 

 

あれだけ憎かった母でも、

目の前で焼かれるということは耐え難い。

 

 

 

 

あまりのショックに腰を抜かし、

泣き叫びました。

 

 

 

 

無事に母の葬儀を終えると、

私は水商売から足を洗います。

 

 

 

 

そこから半年が経ち、

父の住む場所へ母の死を知らせに。

 

 

 

 

そこで初めて、

父も亡くなっていることを知るのです。

 

 

 

 

その数ヶ月後には、

妹も死にました。

 

 

 

 

二十歳で家族全員を失い、

私は路頭に迷うのです。

 

 

 

 

しかし、

私が小学生の頃から母と交際していた彼氏。

 

 

 

 

この人が母の死をきっかけに、

私と妹の養子縁組をしてくれていたため。

 

 

 

 

事実上、

そして戸籍上は一人を免れたのです。

 

 

 

 

しばらくは養親と一緒に、

母が自殺をしたマンションで暮らします。

 

 

 

 

そこからの人生もどん底で。

 

 

 

 

好きになった人と、

円満な恋愛ができず。

 

 

 

 

捨てられる不安。

 

 

 

嫌われる不安。

 

 

 

甘えたいのに、

甘え方が分からない。

 

 

 

 

彼氏とは笑顔で過ごしているのに、

不安と恐怖と葛藤する日々。

 

 

 

 

幼少期に受けた虐待、

父と母の不仲、

そしてヤングケアラー。

 

 

 

こういった機能不全家族で育ったことが、

私の人生を苦しめていることに気付いたのは子どもを産んでから。

 

 

 

 

17歳の頃、

家庭と人間関係に苦しみ。

 

 

 

 

帯状疱疹を発症。

 

 

 

 

18歳の頃、

盲腸にもなりました。

 

 

 

中学生の頃から、

強いストレスを感じると耐えきれない腹痛に悩む日々。

 

 

 

 

こちらに関しては、

20代で過敏性腸症候群だと判明しました。

 

 

 

 

大きな喜びと興奮を得たくて、

ギャンブルにお金を注ぎ。

 

 

 

二十歳で、

100万円近くの借金もしました。

 

 

 

 

25歳で大きなパニック発作を経験し、

そこから産後うつにもなり。

 

 

 

 

精神薬を服用し、

なんとか日常を過ごせるまでに回復。

 

 

 

 

そこからさらに、

病魔が私を襲います。

 

 

 

 

2016年に下の子を出産後、

子宮頸がんの初期がんに。

 

 

 

 

その2年後、

甲状腺がんも判明し甲状腺全摘。

 

 

 

 

過去の私は、

とにかく生きづらさを感じ。

 

 

 

 

自傷行為やOD、

さらには自殺未遂をしたことも。

 

 

 

 

それでも今は、

生きていることに感謝できるようになりました。

 

 

 

 

二十歳の頃、

趣味の範囲で学んだ心理学と自己啓発。

 

 

 

 

これらが、

私を助けてくれたのです。

 

 

 

 

そして今では、

精神薬を断薬して三年が経過。

 

 

 

 

精神薬の離脱に耐えながら、

少しずつ自分を取り戻せています。

 

 

 

 

病気続きだった私は、

どうにか自宅でお金を稼ぎたいと考え出すように。

 

 

 

 

そこで出会ったのは、

ウェブライターでした。

 

 

 

 

キュレーションサイトのライターとして登録し、

ウェブサイトの記事執筆を始めるのです。

 

 

 

しかし、

キュレーションサイトは自由に文章を書けないデメリットが。

 

 

 

 

私は自分の表現で、

多くの人にその文章を読んでもらいたい。

 

 

 

 

そう思うようになりました。

 

 

 

 

そこから自身のウェブサイトを作れば良いと判断し、

運営サイトを立ち上げ。

 

 

 

 

 

運営サイトでの活動を進めるうちに、

「過去の私と同じように苦しむ人に、生きるヒントを与えたい」

そう強く思うようになりました。

 

 

 

 

 

そこからは、

自身の経験を運営サイトYouTubeで発信し。

 

 

 

 

自身の生い立ちや病気に対する考え方、

克服の方法を発信し続け三年が経ちました。

 

 

 

 

おかげさまでYouTubeは、

チャンネル登録者数1,000人を到達。

 

 

 

 

運営サイトに関しては、

月間一万人もの方が検索エンジンから訪問してくれます。

 

 

 

 

月間、

数万円稼げるほどに成長しました。

 

 

 

 

アメブロに関しては、

私という存在を多くの人に知ってもらいたいという願いから、

毎日投稿を決意。

 

 

 

 

また、

ウェブサイトを運営しているため、

文章力向上を目的として活用させていただいています。

 

 

 

 

運営サイトもYouTubeもアメブロも、

はじめは誰にも見てもらえませんでした。

 

 

 

 

それが今では、

1日に多くの人の目に触れる機会が増え。

 

 

 

 

 

読者様や視聴者様から、

励みになる応援のメッセージもいただいています。

 

 

 

 

 

そこで、

もっと多くの人に私の経験が伝わるよう、

TikTokも始めました。

 

 

 

 

幼少期からどん底だった私ですが、

その経験を活かしたい。

 

 

 

 

過去の私と同じように苦しむ人に、

私の声を届けたい。

 

 

 

 

はじめは収入目的で始めた活動も、

今は過去の私と同じように苦しむ人へ向けての情報発信を主流にしています。

 

 

 

 

現在苦しまれている方に、

生きやすさを感じるヒントを与えたい。

 

 

 

 

多くの人に私の発信が届くことで、

苦しまれている誰かの心に響くと信じています。

 

 

 

 

このような願いから、

YouTubeアメブロ運営サイトTikTokなどの媒体を使い、

情報発信を続けている現在。

 

 

 

 

これからも、

一生懸命発信します。

 

 

 

 

人はいつでも成長できますし、

変わることも可能です。

 

 

 

 

いつだって人は変われる。

 

 

 

 

自分が諦めない限り。

 

 

 

 

私もまだ完全に、

生きやすさを身につけたわけではありません。

 

 

 

 

こうやって活動をしていく中で、

その答えを見つけている最中です。

 

 

 

 

私のアメブロに出会い、

こうやって自己紹介を読んでくださったのも何かのご縁。

 

 

 

 

ともに、

成長していきませんか?

 

 

 

 

最後に、

どんな現実が起きようとも、

あなたはあなたのままでいていい。

 

 

 

 

例え世界中の人間が敵に回っても、

自分の味方は自分しかいません。

 

 

 

 

自分を敵にすることは、

自分を殺めてしまうこと。

 

 

 

 

 

私のSNSを通し、

多くの悩める人が救われて欲しい。

 

 

 

 

繰り返しますが、

過去の私と同じように生きづらさを感じている人に、

生きるヒントを提供しています。

 

 

 

 

ともに生きましょう、

一緒に過ごしているこの時間を。

 

 

 

 

そして、

一緒に笑いましょう。

 

 

 

 

 

当ブログでは、

私の経験を通し、

生きるヒントを与えています

 

 

 

 

 

どうか、

一人で苦しまないでください。

 

 

 

 

私の活動は、

SNSの力を借りて自身の経験を発信し。

 

 

 

過去の私と同じように苦しんでいる方に、

生きるヒントを提供させて頂いています。

 

 

 

 

あなたのお役に立てていたら、

本望です。

 

 

 

 

拙い文章ですが、

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

 

 

 

あなたとの出会いに、

感謝を込めて。

 

 

 

 

松永春奈