会津若松は歴史好きな人にはお馴染みの会津藩のお城がある城下町で、幕末の動乱に深く関わり、時代劇などでも新撰組や幕末物には必ず登場する場所です。

戊辰戦争では、お城は官軍の容赦ない砲撃で穴だらけにされ、今にも崩れそうなお城の中に武士だけでなく、女や子供も立て籠り、最後まで戦った話は、NHKの大河ドラマの「八重の桜」で描かれてましたよね。

その鶴ヶ城。若松城とも言いますけど、地元では鶴ヶ城の表記だし、皆さんそう呼んでます。

いつも西側の入り口から入っているので、最初にこの姿のお城を見ます。こちらは裏側になります。

ぐるっと回って、こちらが正面になります☺️やっぱりカッコいい👍好きだな〜

お城の入り口は石垣の間を潜って、この奥の狭い門から入るんです

この長い壁のように見える部分は武士長屋で、天守閣につながってます。
数年前に瓦が本来の赤い瓦に復元されて昔の姿に戻ったんですが、僕は子供の頃に見ていた昔の瓦の色の方が何となく好きですね。

お城の周りには桜の木が沢山あるので、春のお城は桜とお城で見事な景色も楽しめます。

そして、もう1つの会津のシンボルと言うか、忘れてならないお話の1つが白虎隊です。

白虎隊は会津藩が戊辰戦争の時に組織した部隊の名前で、武力や階級、年齢層などで分けた4つの部隊の1つで、東西南北を守る古代中国からの四神の呼び名を付けた(玄武、青龍、朱雀、白虎) で、元服したばかりの16〜17歳の若い少年ばかりの部隊です。

その少年部隊が戊辰戦争でお城が燃えていると思い、もはやこれまでと皆で自刃し息絶えた場所が飯盛山です。

同じように戊辰戦争では、お隣の二本松市でも共に戦った二本松藩の志願した幼い少年部隊(二本松少年隊)が戦い憤死、わずかな兵力で戦った二本松藩は玉砕、城は燃え落ち悲劇の戦場となりましたが、こちらは13歳から17歳ほどの志願した少年の部隊と言う事もあり、正式な藩の侍の隊と認識されていない部分もあったのと、官軍に逆らった諸藩の士族は逆賊の汚名を着せられ、明治政府のそれは酷い扱いもあり、こうした史実はあまり知られる事も無いまま時代に封印されてしまった話の1つです。

戊辰戦争は白虎隊のように若い命が各地で沢山亡くなった戦争でもあります。

この時の仕打ちが許せず長洲許すまじと、つい最近まで会津と山口市は仲良くせず、友好都市にならなかった話は有名です。この悲劇と屈辱の歴史を知っていたら、そりゃ気持ち解るわとなります。

僕の田舎の家はこの飯盛山の近くで、田舎のお爺ちゃんは、毎朝お山まで散歩するのが日課でした。

僕も子供の頃、夏休みに会津に遊びに行くと、朝の散歩で一緒に山に登っては上にあるお墓の所まで行ってはお参りして帰って来ました。

会津の爺ちゃんは自分はお侍の子孫だからお参りするんだよと言ってましたけど、本当かどうかは判らず、調べてもいないので本当の所は判りませんが、親戚の家は官軍が攻めてきた時に藩士が家を宿や陣地として使っていたほどの大きな農家だったので、戊辰戦争の時の刀傷が柱や梁に残っているし、鉄砲玉の後も残っている家にまだ住んでます。こちらは実際に見てるし触ったり親戚の話を聞いていたので、子供でも本当の話なんだな〜と実感しました。

その飯盛山はお城と並ぶ観光地なので、階段の横にベルトコンベアーで上まで登れる「動く歩道」があるので、足腰の弱い方でも上まで行けます☺️

早朝は動いてませんから、当然、奥の階段を登って行きます。

階段の入り口に飯盛山の案内図があり

大体の方が階段を上がらず、ここから左側に行き、隊士が冷たい水の中を歩いて出てきた池の所を見に行き、それから階段を歩いて登っても、一度も向きを変えないでも下に降りてくる造りのさざえ堂を見て、それから志士の自刃の地を見に行くのが観光客の方のコースですね。

僕は、そちらは行かず、真っ直ぐ階段を登り山の上に

こちらは正面に見える景色。真ん中に観音様がいらっしゃいます。
左側は隊士や藩士のお墓や墓司があります。

お爺ちゃんはここにお線香をあげてました。なので、僕も久しぶりにお線香をあげてお参りしてきました。
それから右側の通路を進むと、こちらに出ます。

そう、ここが白虎隊の自刃の地です。

ここにもお線香をあげてお参り。何十年ぶりかな〜 お参りして何故か気持ちがスッとしました。心の何処かでずっと来たかったのかも知れませんね。

そしてここから会津の町を見て、山を下りてきました。

天気が悪くて見えにくいですね。実はこの場所からはお城は見えなくて、同じ方向で火の手が上がり、お城が燃えてしまった、城に立て籠り戦っている殿や親も討ち死にしてしまったと勘違いした少年達は、疲れきり怪我をして戦えない者もいたので、もはやこれまでと自決を決意、悲劇の場となりました。

たった一人、死にきれず助けられた生き残りの方がいた事で、この白虎隊の話を後世に残す事に繋がりました。

なので、ここは観光地ですが、墓地であり、悲劇の地であり、山全体が祈りの場であるんです。ふざけたり騒ぐ場所では無いんです。

御朱印騒ぎで飯盛山がテレビのニュースで写った時に、御朱印を書かれている飯盛さんが怒ったり悲しい気持ちになるのは良く解ります。あの方は飯盛山を守られている家の方ですから、他の観光地と同じで軽い気持ちで記念に御朱印とか言われたら、会津の人間なら当然怒る気持ちは解ると思いますよ。

この話を子供の僕に良く聞かせてくれた爺ちゃんは大工で、会津武家屋敷を建てた大工さんの一人だったので、こちらの武家屋敷が出来た時に無料で中に入れたのを憶えてます。

こちらの会津武家屋敷は戊辰戦争の資料館です。

中には官軍がこうして攻めてきたとか、会津藩の事などが展示してあります。

隣の物産館の「古今」は会津の物が沢山あるので、本当に観光で訪れるのに便利な所です。

今回は会津の観光と言うか、会津の魂の場所の話でした。

それと会津の人の気質を表すと言うか、駅でお土産に買ってきたTシャツの「什の掟」も会津の教えであり、会津の人なら皆が知っている言葉です。

ならぬことはならぬのです。

好きだな〜