数日前、ミディ胡蝶蘭ホワイトマジックの花がひとつ、ようやく開きました。

植物の世話をするようになって、あらためて感じるのは、蕾の時期が結構長いということ。

蕾のまま冬を越す春の花に比べればずっと短いのでしょうが、咲くのを待っている、こちらにしてみれば随分長く感じます。

蕾のホワイトマジック

2本仕立てだったのに不手際で1本茎を折ってしまって、期待が大きすぎたということもあるのでしょう。

ともかく、待ちに待った開花でした。

今朝のホワイトマジック

 

素人には、もっと早く開くようにも思えたのですが、旧約聖書の言葉ではありませんが、やはり花の開く時はあるのでしょうね。

 

 

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えた物を抜くに時があり、…

(日本聖書協会 旧約聖書 伝道の書3章より)

 

そして、あらためて自分自身が癒されてきた過程を振り返ってみても、時というのが一番大きかったように思います。

 

えらそうに、感情は感じきれば去っていく、なんて書いてきましたが、それを本当に実感できるようになったのもここ数年。

 

それまでは、同じような感情が繰り返し繰り返し大爆発を起こし、きりがないように思えることも度々でした。

 

また、強迫観念が頭から離れず、強迫行為を繰り返していた中高時代は別として、27年前の自分と今の自分を比べてみて、恐れを手放せたのかといえば、そう言えない気もします。

 

でも、あの頃と今は確実に違うわけで、

では、何が違うかといえば、恐れに焦点を当てない生活を選ぶことを自分に許せるようになっただけのようにも思います。

 

もちろん、そう出来るようになったことが、やっぱり凄いことなのですが。

 

一生背負うしかないと思うこともあった強すぎる恐れ。

 

この恐れを何とか手放したいと思えば思うほど、焦点を当てていたといえばそうなのでしょう。

 

でも、ともかく加害恐怖などの恐れが強すぎて、焦点を当てないようにするなんて不可能に思えていました。

 

でも、やり尽くしたというか、役目を果たしたというか、もう恐れに焦点を当てなくていいと言われたかのように、一つの時が終わった、そんなふうに今は感じています。

 

また、何が何でも、この社会の常識に適応しようとしていたのに、そこに重きを置かなくなった…。

それも、昔の自分には考えられないことですが、概念の揺るぐ時は来てくれたようです。

 

時といえば、何度か書いてきましたが、自分はまさにこの時を選び生まれてきたのだとも思っています。

 

「父と戦争」という記事も書いていますが、昭和38年に生まれ、昨年戦後70年を迎えたことも、恐れが和らいでいったことと無関係ではないように思います。

 

また、私自身が、溜め込んできた感情の噴出に七転八倒してきたように、地球規模で隠されていたことが表に出てきて、こうと信じられてきたことがゆるぎ始めています。

 

この時代でなければ、私は、ここまで来れなかったでしょうし、この時代を選んで生まれてきたのだとも思います。

 

では、私が楽になりたいがゆえに受けてきた様々なセッションは、私が癒されていく時と、どのように関わっていたのでしょうね。

 

癒しの過程を進めるために、生まれる前から、受けることを決めていたセッションがあるかもしれないし、ないかもしれないし、それは正直わかりません。

 

ただ、誰かこの恐れを何とかしてと、ずっと思ってきたけれど、私は、きちんと癒される過程を歩いていて、会うべき時に会えたセッションによって、更に前進させてもらえたのだということです。

 

抱いた蕾が次々と咲きはじめる前に、「はるのいざない」にも遊びにいらしてみて下さいね。

 

 


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