夏の森の詩ーオオルリの森ー 7 | ©猫と春風の花慈しみ愛で。心。

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猫たちと暮らす穏やかでささやかな日常。
当たり前だけど、当たり前じゃない、
がかけがえない特別な宝物の瞬間瞬間。
一日一日大切に丁寧に重ねています。
(旧ブログ「神様がくれた宝物2007〜」より)

静脈の渓
わずかに細く白絹の流れる畔
深く湿った苔むす木々の上流の方向

今は誰も使うことのない
古く朽ちた野鳥の観察小屋がある
高床のようにしてあり
野鳥の行方が見渡せる

碧く光るオオルリの
その美しい姿と
おっとりと美しい啼き声に

何もかもが掠れた

木々の茂る奥に
ひっそりと隠れ処のように在り
朽ちた小屋はもう既に木々に溶け
森と共に生まれたように在った

私は内側からしか
かけられない鍵をかける

そしていつもその音の瞬間に
あらゆる全てを遮断でき
あらゆる全てを開放した

放射の木漏れ日のように
突き刺す光は
この森の大地から一点へ集められ
空へと吸収されていく光

夏とはいえ
冷え込む湿地帯に
毛布にくるまり
温かい珈琲をすすりながら
日がなオオルリを待つ

しかし
ピーリーリーと
オオルリが美しく啼くことも
碧く美しい姿を見せることも
本当はいつもなかった

在るようにみえて無く
生きたようにして
全てを空へ帰し
死んでいく森であったから

オオルリをかき消すように
何もかもが啼いていた


アプリより。

YouTubeさんより。

リルケの鳥と森に合わせて


一日かけて考えたって
上手くはいかないものだなあ。

やはり瞬間瞬間のイメージだから。

難しい。






詩人はとかく精神分析学の対象となるとバシュラールは言っている。難しく書いてあり完全な理解はまだ困難であるけれど、簡単に言えば、詩は言葉の幸福でありながらも、精神分析学の観点からは、言葉の上で幸福であっても現実は不幸であると見るのだそう。そして過去から掘り下げてそれを分析しようとする。肥料で花を語るのだとしている。言葉の上への逃げであるとしかみない。芸術というものから外れた観点でみる。

事実は過去や何からも縛られないイメージに他ならないものであるということを考察しようともせずに。

私はやはり言葉を知り、あらゆる対象物に純粋に興味を示し、そこから派生するイメージを膨らませるという豊かを想う行為は、幸福であると想う。それを何の脈絡も持たずに自由に自在に膨らませられるものが詩であるならば、それはこの上ない喜びとなり胸踊る想いがして。

それは地上の現実の生の上に在るもので、物質的で現実的な幸福の上へ更に伸びるものであるとも想う。イメージが膨らむことの視点から現実をみれば、自ずとその現実へもイメージが広がり、例えささやかな暮らしであれ、そのささやかな暮らしはイメージを持って幸福と成り得ると私は想う。

心豊かにして現実を暮らす幸福を想います。

それは愛情という意味でも。

イメージの豊かさは、人を想う気持ちを深める。どうしたら誰はどう想い、何をしたらどうなるか、だから誰にはどうしなければならないか、どうする事で、今この時が正しく上手く回り、どうする事で誰がどうなるか、彼は今何を思うか、私はそれに対して何をしなければならないか。どうすることが一番良いのか。

現実世界の様々な人との関わりの中でもその豊かなイメージは愛情を育む幸福を得ると私は想う。

それが小説とはまた違った意味合いを持ち、何の過去も何の脈絡も持たない恍惚としたイメージの中にある詩独特の幸福ではないかと想う。


何も解らないくせに、偉そうに生意気かも知れなくても、私は対象物から生まれ出る様々なイメージから心の自由を更に得る感覚は覚えるし、その解き放たれたイメージの自由から、現実がまた豊かな色彩を産み、現実世界に物質的ではないまた別の満たされた幸福を感じます。

また欲望からくる苦悩は絶え間なくヒトにつきまとうもので、その欲望を捨て去ることで更なる自由が得られるとも私は想い、

ただそういった苦悩から生まれいずるものから、詩は更に自由な広がりを見せるというようなことも記述されていました。それは稀なことではあるとして。

それも解る気がして。本当に何もかもが全て満たされて、それに満足しきっている時に、人は詩のイメージをより膨らませられるものかどうか。私は長年、全く必要も言われもない最高の苦悩を強いられ続けていた時の方が、その拘束や悪意の呪縛からより解き放たれた本来の自由を求めて沢山豊かに表現をしていたようにも思えて。今最高に悪質なそれらの全てを捨て去ろうとしてみると、本当に何も浮かばない。心が平穏過ぎて。

その時にただの15分で描いていたものが、今は一日かけても上手くイメージが膨らませられない。


旧ブログでは、まだ家族の旅立ちや愛犬の旅立ちという取り残された者の哀しみを僅かに含んでいて、私はそこから何を得なければならないか、どのようにして生きていかなければならないか、毎日心の片隅にそういった想いを持っていて、それがまた想いの表現として表れていて。

でも、その想いをブログを通じて言葉で表し、自分で理解し納得して前向きに現在や未来を捉えて今在る中で哀しみに思い悩むことも、以前のようにもうそんなにはない。そういう平穏な心理の中から、旧ブログに表現したような強い想いもあまりわかない。ならば何を表現すればいいのというところで、考え倦ねる。

過去からも何からも縛られないイメージというと、それこそ旧ブログに描いた自由という不自由さに繋がる。何からも解き放たれた時に、逆に掴みどころを失うような。

思い悩むことの中には、何かしら生まれるテーマがあるようにも思ったり。平穏な心の中にはなかなかテーマが出てこない。そういうイメージが広がる苦悩というのもあるなぁと思うと、確かに苦悩から生まれて更に自由に広がるというのも解る。

陽水さんの「少年時代」の中にもそれを感じます。何か切り離したくても切り離せない誰かしらへの強い想いや憧れを夏に残したまま、心の奥深くの葛藤は冬のように深く染み付いていて、呼びかけたまま長い冬が窓を閉じ、消えない影が誰にも見えないように、ひっそりと夜に伸びて星屑の空へ瞬くような。そんなイメージがして。正に脈略のない、でも確かなイメージが宇宙観まで広がってますよね。影は黒い。黒い影が夜に伸びるからそれは誰にも見えない。自分の胸の内にひっそりとして大切に隠してる。

それを星屑の空に解き放したのかな?

少年時代というよりもう少し上のイメージがする。男性は想いを何かしら隠そうとするから。男は泣くなと育てられるから。



勝手な分析なんかしてはいけないけれど、凄く奥が深く見えて凄いなと思って。バシュラールならば空間の詩学としてどのように捉えて残すのかなと考える。リルケより凄く迫力がある。



イメージを膨らませること。

それは猫たちとの関わりにも同じで、猫たちの繊細な行動や表情や習性をできるだけ事細かに常に把握して、今私に何を求めているのかを想う。自分が何をしてほしいかではなく、今目の前で私に向ける眼が何を要求しているかを感じる。頭をなで鼻に指を当て、鼻の横の膨らみに触れ、猫はそれを陶酔して喉を鳴らし眼を細め、頭を手の平に強くこすりつけ、私の指先に鼻先や横の膨らみを強く押し付けこすりつけ、それこそ恍惚として延々それを激しくやめない。やがてくねくねとしてお腹を見せ、またたびを嗅いだ時に起こるような症状までいく。

互いに完全に心を許し、信頼という繋がりを通して、愛情の確認をし、互いに交換して送り合う行為。

ただそれだけのことにさえ、物凄い幸福を感じます。それはイメージを膨らませて感じ取ることができたからで、ただ飼ってそこに居るだけの生き物ならば感じ得ない幸福だと思ったり。

子供の頃はそういうイメージがまだできなかったから、猫はただ家にいたし、自分が触れたいたいときだけ触れた。今のような喜びはまだ育ってはいなかったから。

ただイメージが膨らみ過ぎて、過度に必要のない心配をし過ぎてしまう弱みはある。

心配し過ぎて、結果要らぬ心配であったといつも知る度に大きな安堵を得る喜びもまたひとしおにあり、だから心配するに越したことはないと思ったり。

心配も何もしなくて楽観過ぎて、何かがあった時にショックを受けるより、心配し過ぎて何もなく安堵する方が嬉しくて、だから必死で心配するようなところもある(笑)

考えても仕方ないことは考えない楽観というのもあるけれど、それは心配とはまた違うところのもの。