あったかい。
腕に筋立っちゃった。
モコたんのちっぽタッチ!
ちっぽータッチ。
スリスリスリスリクネクネクネクネ
しあわせのちっぽーーーターッチ!
嬉しい。
後で動画またやります。
お疲れさまです。
今日も素敵な一日に
なりますように。
春風
色っぽーい。
28歳に見える。
注:モコちゃんのおちりは
長毛が密集してモコモコなので
おちりそのものは
直接触れません。
例え触れても
おちりさえ愛おしい。
時々汚れていないか
におってみることもあります。
健康チェックは怠りません。
変○飼い主冥利につきます。
Thank you.Thank you so much.
メルシーボークー♡
ヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ。
ろ、ろ、ろ、、、言わない。
ろー○の休日でしたー。
エロティシズムについて
Wikipediaより一部抜粋参考引用。
プラトンの『饗宴』においてソクラテスは、エロティシズムが恋人同士の共同とか補完とかより気高いものを目標としていると述べている。すなわちエロティシズムは「真理」へ向かう身ぶりだと言うのである。
宗教としては、エロティシズムは個人を、個を超える創造的な力に直面させる。 おそらくそれは神とか美の観念とかいったものというよりも、生命とか、生物学的意味での性(セクシュアリティ)とか、繁殖といったものである。
聖なるものとしての性は畏怖すべきものでもあり魅惑的なものでもある。バタイユによれば、性は反道徳的であるというよりも、生命と種の保存の名において個人的道徳を失効させるものである。エロティシズムは、個体が自己の中に閉じこもることを拒むという点では死と共通するものをもっている。個体の意識や自我はこの閉じこもりを基礎にしているからである。性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える。個体はやがて滅びるから繁殖を行うのではなく、生命が更新されるためには個体は滅びなければならないのである。生と死という一見反対のものが一つであり、豊饒をもたらすという芸術を古代人は「死と再生の秘儀」という形で伝承してきた。ギリシア神話でそれはディオニュソスと呼ばれたもので、バッカスの暴力的な秘儀の中に狂信女たちは陶酔を見たのである。
セクシュアリティと誘惑編集
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』の中で、哺乳類の場合には性は雄と雌で異なる意味をもっているということを強調した。雌の場合、「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」。それゆえ雄のほうは誘惑者の役割をとりわけ果たすことになる。これはさらには侵略者の役割となるかもしれず、過剰なまでの気前のよさを無償で示すことによって、生命力を見せつけることであるかもしれない。媚態(コケットリー)とは気を引きながら決して相手のものにならないことであり、拒みながら与えることであるが、それが雌の不安の表現であるのは、雌はその身に子を宿し、(出産という形で)我が身を疎外するものだからである。
従ってポルノグラフィとエロティシズムを明確にするのは正しい。ポルノグラフィとはある種欲望の否定であり、他者の人格の否定なのである。猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される。女性性は否定される。それは隠れてしか存在しないからだ。とはいえ、エロス的な営みの根底には、肉体という地平がある。エロス的な営みが他者に純潔の衣を着せるのは、この衣を剥ぐためでしかない。レヴィナスによれば「芸術における美は女性の顔における美しさを転化させる」。なぜなら芸術的美は、女性の顔から深みと肉体的狼狽を奪い、女性の美しさを絵画とか彫刻といった中立的素材ですっかり覆われた形態に変えてしまうからだ。「転化」という言葉はもしかすればプラトン的愛(プラトニック・ラブ)のことを暗示しているかもしれない。プラトン的愛は少年を対象としており、昇華によって肉体的美から魂と観念の美へと昇っていくことをめざすからである。しかしエロス的裸出性においては「顔は摩滅し」、「曖昧なものと化して獣性へと延長されていく」。レヴィナスによれば美の曖昧さは顔そのものの曖昧さである。顔は敬うよう求めつつ、冒瀆にさらされてもいる。「不敬は顔を前提としている」。
私感
単純に自己の中に存在する頑ななプラトニック性へのコンプレックスの開放と、或いは心身全てに於いて限りない自由ヘの開放ですね。
人類は元々は一糸まとわぬ姿であったものを、言語の発達により、思考や恥じらいを覚えた。
そして身を覆い隠す分だけの心を隠すようになり、よりエロティシズムを発達させた。
全てが日常的に一糸まとわぬ姿であれば、其処にエロティシズムは存在せず、隠すようになったからよりエロティシズムが生まれたのではないでしょうか。
隠された中の秘密を知りたい
という誘惑的な。
神へはありのまま何も隠さないものであるから、宗教的にはやはり真実と心身全てを投げ出して捧げるくらいの愛であるような。
究極はエロティシズムの中に何を見出すかにより、人の心の在り方や人間性が問われ見極められるのかも知れない。
欲望であるか慈愛であるか本能であるか抑制であるか、ただ愛であるか。
エロティシズムでありながら、ただプラトニックであるか。
゚・゚*・(゚O゚(☆○=(`◇´*)o
例えば、猫は本来衣服を着ない。着ないままでも可愛くて愛おしい。其処にはエロティシズムという観点はなく。
それを毎日毎日一日中服を着せ続けて暮らした場合、服を脱がせた時に、其処にエロティシズムにも似た恥じらいの感情が初めて生まれる。
それに似たことのような。
普通一般的に、夏には、
アメリカ人の露出と日本人の露出の度合いの格差を見れば、心の開放度の違いが伺えて。
日本人はアメリカ人に比べて、露出に対する抵抗と心の自閉感や恥じらいが強く在り、
勤務先に外国人が多く訪れますが、その度合いのパーセンテージは明らか明白で顕著。圧倒的に日本人は外国人に比べて露出が少ない。
ただ近年若者の中には、アメリカ人のように露出の多い人も増えてきていて、そういった若者たちは大概、開放的で大らかな性質であるように見受けられる。
ほんと。
開放的な海外の方に憧れる反面、日本人の恥じらいの良さも改めて感じたり。
和服は全身隠しますから。和服における恥じらいの良さも、逆にエロティシズムも最大と言えるかも知れません。
誰かしらが必ず和服に色々な妄想をするでしょう?帯をくるくるとか定番みたいな。(赤面)
Y(>_<、)Yо(ж>▽<)y ☆
毎日毎日露出の多い妻を見続けたら、和服の女性についふらふらとしたりするかも知れない。
上記のWikipediaにある
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』の一節は、明らかにセクハラやDVの予兆ですよね。女性軽視の。理性と画策と支配への欲望。
それが自然の仕組みのひとつであるならば、人間の中にもそういった本能はあるでしょうし。
だけど神様は人に言葉とそれに繋がる心を与えた。何故ならば、純粋に愛を持ち優しさで愛し合ってもらいたいから。
創造された世界の、ほんの少し間違いを正そうとされたかも知れない。
言葉や思考や心による限りない欲望や支配の抑制に。その人類が地球のサイクルに気付き、過ちを修正する存在として。
優しい未来を想って。