今、私が小説を描いたりしているのは、そんな父の影響も大きいと思います。
母は家庭に入り、祖父母の面倒と、やがて兄たちも生まれ子育てをしながら、ずっと家を守ってきました。
やがて祖父母も亡くなり、叔父叔母も新しい生活を始め、私たち家族も、新しく開発された土地で新しい家を持つことが出来ました。
父は単身赴任の多い生活でしたが、母は文句ひとつ言わず私たち兄妹を懸命に育ててくれました。
見知らぬ内地、見知らぬ新潟で、「外地の人、外地の人」と言われながら、穏やかに笑い、よく楽し気に歌っていました。
ただひとつ、私が新潟の言葉で話すのを凄く嫌がったのは、母なりのささやかな抵抗だったかも知れません。
男兄弟の中のひとり娘ということもあり、私への躾が厳しすぎる面もありましたが、
波乱な人生を笑顔で生き抜いてきたこと、亭主関白な父に最期まで文句も言わず仕えたこと、人の為に一生懸命に尽くしていたこと、今ならとても尊敬できます。
私は、あなたのその何ひとつも適わないでいます。
でも、せめて笑顔で頑張ります。
私を産んでくれて、大切に育ててくれて、どうもありがとう。
今まで言ったことなかったかな。
父は定年まで教職を全うし、退職後は小説を描いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、暗室まで作ったり(母絶句)海外一人旅を楽しんだり、とにかく好きなことを好きなだけ楽しみ、晩年を謳歌していました。
父は、頑固な人でしたが、根はロマンチストでとても優しい人でした。
父からは沢山のことを学びましたが、とりわけ、後悔ないよう好きなことをとことん楽しむということは父をみて、学んだようにも思います。
波乱な中、二つの国を生きてきた両親の逞しさから受け継いだ魂を大切に、私も後悔ないようこれからも逞しく生きていけたらいいなと思っています。
と、また個人的なつまらない話ですみません。
旧blog「神様がくれた宝物2007~」より。
春風
補足
2016 10/08 21:07
こちらへいくつか旧blogを再アップしていますが、この記事も含めて、特に誇示する為のアップではなく。
勿論、ふたつの国、ふたつの国の人々を最期まで愛し、逞しく生き抜いた両親を誇りに想って生きています。
旧blogにそれを描いた。それでいい筈なのに、あまりに大切な想いたちへ次々と片っ端侵害が酷く、混乱しない為の整理です