2024年7月3週目・エレミヤ牧師の聖書解説動画の紹介です。是非ご覧ください。 | 恐れずに ただ 信じていなさい(自分の十字架とはキリストの弟子としての歩み)

2024年7月3週目・エレミヤ牧師の聖書解説動画の紹介です。是非ご覧ください。

紹介動画は2本になります。

是非御覧ください。

そして、拡散して下さい。

 

 

 

<ポイント>

 

<ユダヤ人がイエスを殺そうとしていた>

仮庵の祭りのときは、すなわち、キリストが命を狙われる、 迫害のときであった。

それは、終末の日に、兄弟が兄弟を訴えて

死に至らせるとの迫害の日の予表である。

 

<仮庵の祭り>

仮庵の祭りの隠れた意味合いは理解すべきである。

家があるのに、仮の家を作る。 宮があるのに、宮の外に仮庵を作る。

いわんとしていることは、家、教会が 背教するとき、

仮の家すなわち、地下教会を 創るべきであるとの教え、たとえである。

マタイ24章の屋上にいるものは家に入るなとは、

仮庵の祭りが前提となる表現である、 それは、家の屋上に仮庵を作ることが

祭りでは命じられているからである。

その 意味合いは地下教会から出て、

背教の 公の教会へ入るなとの意味合いである。

 

<世は私を憎む、世の罪を指摘するから>

キリストは世の罪を指摘して世に憎まれた。

であるゆえにキリストに従う我らがなすべきことは、 世にその罪を知らしめること。

間違ってもそのままの 君でよいなどとはいってはいけない。

聖書は 悔い改めて福音を信ぜよ、と語るが、

自分に罪があるなど まったく思っていない人がどうして悔い改めるのか?

十戒を提示しその罪を指摘することはクリスチャンがなすべきことがら。

 

<公というより、いわば密かに祭りへ上った>

主はその日、公には自分を表されなかった。

これから艱難時代を迎えようとする我々も 自分を公にするというより、

ひっそりと秘密裏に 行動するようシフトすべきと思われる。

もう大きな教会堂を公然と立てる時代ではなくなる。

 

 

 

<ポイント>

 

<祭司は咎(不正)を負う>

祭司、すなわち礼拝を司るものの陥りやすい罪は不正、

すなわち、真理を曲げることだということは知るべきである。

事実、今の時代、礼拝を司る祭司たる牧師たちを通して、

曲がった教理、艱難前説を初めとした教えが多く広がっている。

 

<他の人(外国人)は近づいてはならない>

外国人は礼拝の奉仕に近づくべきではない。

今の時代でいうなら、 聖書以外の教えや、

教理、方法を礼拝に持ち込むべきでない。

しかし、この命令とはうらはらに今のキリスト教会には、

聖書以外の教えが入りつつある。

いわく、カウンセリング、セルフイメージ、 ヤベツの祈り、云々である。

これらは礼拝に近づくべきものでなく、礼拝で語られることではない。

 

<レビ人を主への贈り物とする>

贈り物はその人を喜ばせるプレゼントである。

神が喜ぶプレゼントがあり、それは、自分自身をささげ、 主の用に用いられるべく、レビ人(弟子)として、 自分をささげることである。

それはどのような贈り物にも 勝り、神を喜ばせる。

 

<穀物のささげもの、罪へのささげものはレビ人に与えられる>

主の奉仕につくとき、他の人に勝って大いに恵みを受ける部分がある。

それは、穀物すなわち、パンである神のことばの恵み、

また罪へのささげものにより、 自分の罪が清められ、あがなわれることなどである。 神に仕える人生など人の目には灰色に見えるかもしれないが、

実際それを行う人は思ってもいなかった恵みに入る。

 

<油を火で焼き、神への甘い味(なだめのかおり)のささげものとする>

火で焼かれたものは神の前に甘い味となり、神に喜ばれる。

すなわち、肉を聖霊の火で焼かれた歩み、奉仕は神に大いに喜ばれ、

それは神にとり、甘い味のささげものとなる。

従って単に肉の力や、自分の生まれつきの能力に頼る奉仕でなく、

神に喜ばれるような聖霊にある奉仕を心がけるべきである。

 

<神が相続地>

レビ人はこの世では相続する土地も持ち物も無い。

しかし、神ご自身が彼らの 相続地となる。

同じ意味合いで、今の時代レビの歩み(弟子)をするクリスチャンは

たとえこの世で何も相続しなくても心配するべきでない。

何よりも尊い、神を相続し、永遠の命を相続するようになるからである。

 

<イスラエルは1/10をささげる>

1/10献金は聖書に書かれていない、とか牧師、教会の搾取だとか

ひどいことをいう人もいるようだが、しかし、旧約のイスラエル人に関して

明白に1/10をささげるよう命じられていることは知るべきである。

そして、私の理解では、1/10をささげる云々は単に経済的な問題でなく、

神との契約を守る、守らないかという問題であり、

守らないために天の父の家に 入れないことをも聖書は指し示しているように見える。 創世記のヤコブのベテルの天の梯子の夢の箇所である、

ここでヤコブは神が私の歩みを祝し、無事に父の家に戻らせてください、

その 誓いとして1/10をささげますと語っている。

これはたとえであり、 天の父の家に入ることと1/10の契約を

我々ヤコブ(イスラエル)の子孫が守ることとは 密接に関係していることがわかる。