長男を生後2ヶ月で亡くした私たち夫婦が、次男の妊娠を義理の両親に伝えた昨秋…

お二人が、驚き、喜びと共に、ホッとした表情をされたのをよく覚えています。その表情が、

「これでもう大丈夫だね」

と、雄弁に物語っていました。その後、実際にそのような発言がありました。

一人目の子どもを亡くしたから心配していたけど、二人目ができたならもう大丈夫だろう、と。

一人目の悲しみは、二人目が生まれたら上書きされるだろう、と。

それは、子を亡くした経験のない人にとって、ごく自然な考えだと分かります。子を亡くす前の私が、そういった境遇の人に接したら、同じように考えたでしょう。子どもの数で見れば、−1に+1が加わったので、悲しみ(-1)にも喜び(+1)が加わるだろうと。

ですが、実際は…

全然、まるっきり違いました。

長男を亡くした悲しみと、次男を授かった喜びは、完全に独立しています。

心の中をPCのデスクトップに例えるなら、長男フォルダと別に次男フォルダが新規作成されるのであって、フォルダ内のどんなファイル(感情や記憶など)も上書きはできないんです。

長男を亡くした悲しみは、次男が生まれても何も変わりません。

では、一体何が変わるのか…

一つは、次男を思ったり、次男の子育てをしている時間は、長男のことを考える時間ではなくなる、という意味での物理的時間の変化です。

次男フォルダを開いて作業している時間は、長男フォルダを開いていない時間と対応している、とも言い換えられます。

もう一つの変化は、次男が産まれたことで、長男を亡くした悲しみを、ようやくちゃんと感じられるようになったことです。

悲しみがあまりにも巨大で、一人の人間が抱えられるキャパシティを凌駕して、計測メーターを振り切っていたので、長いあいだ悲しみの全貌が全く見えませんでした。

また、見ようとすると心が潰れてしまう、と本能的に察知して、私も夫も「感情を一時停止」して、悲しみを感じないようにしていた部分がありました。

それが、次男が産まれたことで「感情の再生ボタン」が押され、ようやくちゃんと悲しめるようになったんです。

 

海で溺れている最中は、とにかく岸に辿り着くのに必死だけど、岸に身体を預けられた時、ようやく自分に何が起きたかを理解できる状況に似ているかもしれません。

この二つの変化は、「悲しみが減る」といった、「悲しみ自体」の変化ではありません。そうではなくて、「悲しみの抱え方」の変化のように感じています。

でも、そのような実情は、経験者だけにしか分からない、とても繊細で微細なものです。

(経験者でさえ、うまく言語化することは難しく、言葉にすればするほど実情と違うように感じて、口を閉ざしてしまうこともあります。)

 

それだけに、義理の両親には何も言っていません。誤解に何の他意もないことも、よく分かっています。

それでも、私たち夫婦が少なからず傷ついたのも事実です。

 

また、そのような誤解を、他の人達との間で受けているのも承知しています。

 

親しかった友人から、「で、今はもう落ちついた?」などと言われる時は、大きな隔たりを感じてしまう瞬間です。

逆に言えば、


過不足ない適切な理解というのは、それだけで当人の元気になり、力になることを、私たち夫婦は噛みしめています。