義理の両親と、二人いる親友のうちの一人(30代後半で子どもを2人出産、現在44歳)について。

とても大好きな人達なんですが、前々から「何だかなぁ」とモヤモヤしていることが一つあります。

それは、何でも「歳のせい」にし過ぎること。

義理の父は、私たち夫婦に対して、大した意味がない時でもとりあえず「二人とも歳だからねえ」と言います。

義理の母に、次男の大泣き対応で疲れた話をすると、「やっぱり歳だからじゃない?」と言われます。

 

また、自分たちのことも「もう歳だから〇〇できない」とよく言っています。

親友と電話していて、お互いの子育ての苦労話になると、「若い時に出産した人たちと比べたら、そりゃ私たちは大変だよねー」「なんせ歳だからねー」と、必ず年齢要因を最初に挙げます。

もちろん、年齢要因がゼロだとは思いませんし、年齢の影響を全否定したいわけでもありません。

ただ、過剰に「歳のせい」にし過ぎている気がするんです。

まず、出産も子育ても何歳だって大仕事なわけで、20代だって疲れます(20代のママ友談)。20代なら疲れは0%、40代なら疲れは100%、というわけではないので、疲れの質や程度を聞かずして、「疲れた」「大変だ」と言っただけで歳のせいにするのは、ちょっとレッテル貼りじゃないかなぁと思います。

 

次に、疲れの質や程度は、年齢だけじゃなくて、個人の体質や考え方、持病、生活習慣、仕事の状況、夫婦関係、周りのサポート度合い、子どもの個性(大人しい子か、手がかかる子か、等)など、色んな要因が影響していると思うんです。そのうち年齢要因がどのくらいあるかなんて、実際のところは誰にも分かりません。それなのに、「歳のせい」だけに注目するのは、何だかなあと思うわけです。

 

何でも「歳のせい」にしてしまえば、他の要因については考えずに済むので、エネルギーの節約にはなります。逆に「歳のせいだけではない」と認めてしまえば、他の要因を考える手間が発生するし、それが努力でどうにかできる種類だった場合は努力も必要になってくるので、大変な手間になります。だから「歳のせい」にしたくなるのかなあ、と考えたりもします。

 

ちなみに、私も夫も、出産や子育てが40代だから大変だとか、疲れが大きいとは感じていないんです。「歳」じゃなくて「個人」の影響が大きいように思っています。その証拠に、同じ40代でも、疲れ切ってもっと上の年齢に見える人もいれば、とってもパワフルで歳を取らないような人もいるわけで。

 

じゃあ、歳を取る人と取らない人の違いは何なのか。

 

「個人」のどういう要素が影響しているのか。

 

一番大きいのは、「歳のせいにするかどうか」という物の見方の違いだと私は思っています。

 

下記の記事でも書いたように、自分が普段使っている言葉は、脳の働きにダイレクトに影響し、脳はその言葉を忠実に実現しようと動くそうです。

 

「子どもが欲しい」を言い換えるだけで実現が近づく

 

例えば、子育てで疲れを感じた時に、

 

「歳のせいだ」と考える

→脳が「歳のせいにしたいのですね」「40代=疲れた状態、にしたいのですね」と認識し、その実現に向けて動く

→その結果、毎日を「疲れた状態」にするべく、無意識に生活を組み立てる。そして、実際に体力が低下し、いよいよ疲れを自覚しやすくなり、「やっぱり歳のせいだ」と考えるようになり、ますます老け込む…

 

…となるんじゃないかと。

 

義理の両親と親友は、「歳のせい」にすることで、幸せだったり心地よかったりするならいいのですが、大抵は嘆き節なので、そういうわけではない気がします。

 

「自分から歳を取る道を選ばなくてもいいのになあ」「歳を取らない道もあるのになあ」と内心思っているのですが、私はどう返事をすればいいものでしょうか。