これまでのお話 実家処分を決意するまで    

 

2年前の初夏、母の留守中に実家の大木が倒れて道を塞いだことがきっかけで、母は突然私達に、「もうひとり暮らしはできない。」と言った。

 

確かに実家はもう母だけではなく、誰も住めないほど傷んでいた。

そこで、母を私達夫婦の近所のアパートに引っ越しさせることにした。

 

不動産屋で探してもらって、2年間の限定付きではあるが、母がひとりで暮らせるアパートがやっと決まった。

今思えばもう少し早く、母が要介護・要支援認定を受けて、数ヶ月でも既に何らかのサービスを受けていれば良かった。

そうすれば、母の住居も修繕するなりケアハウスを見つけるなり、何か他の方法も選択できたのかもしれない。

 

ただ私はその時まで、母の世話が自分に回ってくるとは思っておらず、兄弟の誰かが何とかしてくれるだろうと思っていたのだ。

 

母が「もうひとり暮らしができない。」とつぶやいてから、約1ヶ月と少したった夏の終わり、母は私達夫婦の賃貸マンションのそばのアパートに引っ越してくることになった。車で5分だった。

 

「もうひとり暮らしができない。」とは言ったものの、88歳の母は自分の新しい生活に何が必要なのかも良く分からない。

 

とういうか、あまりにも部屋が雑然としていて何がどこにあるのかもわからない。

母はベッドの周りにたたんでおいてある数枚の衣類をローテーションしている状態だったのだ。

そのため、これから必要な衣類が、あのギチギチに詰まった洋服ダンスのどこにあるかは、母自身も全く分かっていないようだった。

 

もちろん私も、いったい何を運んだらいいやら全く分からない。

 

しかしアパートも契約してしまったし、酷暑なのに実家のエアコンも1台は壊れてしまっていた。

その後は、リビングのエアコンに頼ってなんとか生きてる状態だったから、早く引っ越しをしなければ・・・。

 

私は焦っていた。

 

とりあえず必要な物だけを運び、実家の家の中はおいおい片付けていこうと決めた。

 

私は今現在着るための母の衣類を中心として、母の引っ越しのための荷造りを始めた。

残りは夫にも手伝ってもらって、自分たちの車で少しずつ運び出せばいいと思っていた。

 

引っ越しは、ネットの引っ越し侍みたいなサイトで引っ越し業者を見つけた。

実際は引っ越し侍ではなかったと思う。

 

物事は動き出すとあっというまで、引っ越し業者が決まったら、引っ越しの日取りもあっという間に決まった。

 

また、今回の敷金礼金、家具などの初期費用もかなりかかったが、幸いにも母は2年間、コロナで殆ど外出できなかったので、お金は少し貯まっており、なんとか支払えた。

 

見つけたのはとても安い引っ越し屋さんだったが、安いのは安いなりに欠点もあった。

引っ越しの日は雨雨だった。彼らはトラックで来たのだが、それには簡単なホロしかついていない。

 

しかも布団袋を忘れたので、雨の日雨は布団は運べないという。

おいおい・・・滝汗

 

母の場合、私達の賃貸マンションに一旦滞在して、部屋を整えてから母が引っ越すので、とりあえず布団は後でも大丈夫だ。

しかし全てを引き払って、引っ越し当日から引っ越し先で暮らす、という人はどうするんだい 滝汗!?

 

なんだかいい加減で、アメリカを思い出すな~、と思った。

 

ま、なんだかんだでふとん以外は運び入れて、段々と家具や電化製品も整えて、部屋は1週間ほどで暮らせる状態になった。

 

引っ越し当初は、私が母のアパートに1週間ほど泊り、家電や給湯器、ガスレンジの使い方を教えて覚えてもらった。

食事は毎日うちで食べてもらうか、母のアパートに運んだ。

 

母も綺麗で便利な部屋に移動できて、嬉しそうだった。

 

物がいっぱい詰まった実家はそのままだったが、まあゆっくりと片付けて行けばいいと、その時は思っていた。

そのアパートは2年の期限付き賃貸だったが、2年もあれば実家も何とかなるだろうと思っていた。

ゆっくりと一年くらいかけて、中を片付けていけばいいと、のんびり構えていた。

 

あのトラブルが起きるまでは・・・。

そしてそれは突然やってきた滝汗

 

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