まったりと過ごす 午後、、、


 震災被害の記事、、巡り、、


  思い出したのは


 その生き様に 深くシンパシー覚えてる


 2人の僧侶の お一人の


 良寛坊の、この言葉


   





  今!それ言う?


  不謹慎極まりないって、、


  またぞろ通りすがりの 表面上の言葉しか


  読めない人、、行間の魂を読まない人から


  避難轟々、、メッセージが、、



  深い深い意味を読んでね!


  言葉を発したその魂を!



  そして、苦いどろどろターキュシュ珈琲


  受けは  さらに続く、、こっちの言葉




  






 死ぬ時節、、、


  それは 災難に遭う時節と同じく


  全ての人に、いつ来るか?


  その時まで、、分からない 時節



  思えば、、昨年 2023年にも


  多くの有名人も、、鬼籍の住人に、、



  充分な時間を過ごせた方、、


  はたまた年齢的には早く行かれた方、、





  俺も、、年齢的には


  日本人の男性平均寿命にも



  一向聴とは言わぬが


   二向聴、、三向聴、、、、





  果たして、、与えられる時間は?!





 残りの時間を、、


 たとえ、、嫌な事、意にそぐわない事


 腹立たしい事の 嵐の日々でも



 苦渋の苦虫人相では無く



 明るく、微笑みながら、、過ごすべし!



  チト 苦いどろどろターキュシュ珈琲飲みながら。


 





  心萎えた時には

  俺は不思議と 姫神が聴きたくなる、、


  
  








どなたかの昨年の独白より、、

平成23年1月のことば


災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候


今月の言葉は江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。一八二八年の冬、良寛が七一歳の時、住んでいた新潟の三条に一五〇〇人以上の死者が出る大地震が起こりました。

幸いにして、良寛自身には被害はなかったのですが、子供を亡くした山田杜(と)皐(こう)に送った見舞い状にこの一文が出てきます。


見舞い状では

「地震は信(まこと)に大変に候。野(や)僧(そう)草庵(そうあん)は何事もなく、

親類中死人もなくめでたく存じ候。

うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」

と生き長らえたために、こういうひどい目を見るのが辛いという気持ちを示した後、冒頭の言葉が出てきます。


災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候


災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。

だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという意味の言葉です。

どんなに不運が続き、大災害に逢おうとも、

それは紛れもない命の現実の姿でしかなく、

そのことを「災難」としてしか捉えることができないならば、どこまでもその不運を嘆いて生きて行くしかありません。

子供を亡くし悲嘆にくれる友人に対しそのことに一切触れることなく、

「人として生まれたからには生老病死からは逃れることはできず、あるがままを受け入れ、その時自分ができることを一生懸命やるしかない」

という仏教の教えを語ることで励ました、

心のこもった言葉ではないでしょうか。

そこには良寛さんの温かい人間味が感じられます。

この良寛さんの手紙は、

恐らく山田杜皐にとってどんな慰めの言葉よりも救いとなったのではないでしょうか。