言葉 | ココロハレルヤ

ココロハレルヤ

日々ふと感じたこと、思ったこと、考えたことを心のままに書いてみたいと思います

前にふとしたことで
手元にきた本を
大そうじしている時に見つけ
久しぶりに読んでみたら

言霊から全てが始まります
言葉はひとつの剣です
配列ひとつで
生かすことも殺すこともできるのです
      植松愛子「妙のことたま」より

と書いてあって
わぁーーーー!
と驚いている
はみです



前に
三種の神器のことを
ブログに書いたのですが

勾玉=心屋仁之助氏「仁」
八咫の鏡=心屋智子さん「智」
草薙の剣=おふたりの勇気「勇」

で揃ってスゴイなぁ

とその時は思っていたのですが



言葉はひとつの剣

ということで
あぁ
心屋塾って

仁さんが
愛する智子さんの言動と自分の心を研究して(智慧)
創り上げたものと
聞いた覚えがあり
(不確かなので違っていたらすみませぬ)
そこから
魔法の言葉
を唱えることで

本当の自分を生きる

ことの幸せを知る道だったんだな

つまり

ぢんさんの「仁」勾玉 人を愛する心
智子さんの「智」八咫の鏡 生きる智慧
魔法のことば「勇」草薙の剣 自分の本音で生き延びるチカラ

なのかな

それならば
三種の神器が揃うということは
神の道にほかならない

栄えの道にしか
ならないな

嬉しくもあり
これは
合気道と同じ
神事なのだと
ちょっとトリハダものです






そこから
言葉について
妄想が膨らみます( *´艸`*)


思考だけの言葉は伝わりにくい

体感した言葉は伝わりやすい

ということを
最近は体感してきました


わたしが口にする言葉は
わたしの言葉と思っているが
もしかしたら
だれかの言葉にわたしの思いが乗っているだけなのではないだろうか

と思う時がある

そもそも
言葉自体が
昔の人たちから
引き継いだもの

わたしが
目にしてきた
言葉や
聞いてきた
言葉が
わたしの言葉を作り上げている

わたしは
わたしの思いをもとに
その言葉たちを並べて
伝えようとしているだけなのではないか

それならば

だれかの訓示を
わたしが言ったとしたら
それは
だれの言葉?

思ってもいないことを言わざるを得ない時は
わたしの心がなくなる

わたしはただ伝える人
伝導師となってしまう

それなのに
わたしの思いを乗せた
誰かの言葉なら
わたしの言葉になるのはなぜなの?

わたしの思いを
ただ伝えるだけなのに

わたしの思いを
言葉にした時点で
もう
わたしの思いと
微妙にズレてくる

近いところではあるけれど
そのものではない

そんなふうに感じてしまうのはなぜ?
このもどかしさはなに?

そして
いちどわたしの中から離れ出た言葉たちは
もうわたしの思いとは似て異なるものになり
受け取るひとで
意味合いがどんどん変化する

不思議だなぁ















でも
それでいいんだろうな






わたしの心が
近い感じで
受け取る人の
心のそばにいけたら
伝わる
ということなんだろうな





思考だけじゃなく
体感した言葉には
思いが乗る
思い=重い

重力をもった言葉(カタチ)は
相手の心にも自分の心にも落ちやすいのかな











時に軽やかに
時に思いを乗せて
言葉あそびをしてゆこう

てなことを

言葉の魔法使いの
孫弟子は
思うのであります















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