6月14日に京都に行ってきました。

いつものお供のハルカはAえ!groupのコンサートに行くので、何かと忙しくてお金がないと京都行きは却下されました。

京都ひとり旅(日帰り)は今年の3月に泉涌寺の方に行ったのですが、書くのが間に合っていませんのでまたの機会に書きます。(いつものこと)


第一の目的は京都文化博物館で開催されていた(6月23日まで)「松尾大社展」だったのですが、ここ三条はわずかな範囲でも見所がぎっしり詰め込まれていて、1日ではまわりきれません。

有名な社寺あり歴史あり、近代建築、ミュージアム、ショッピング、グルメもいっぱいで飽きません。

友達と一緒も楽しいですが、ゆっくりと散策したい人には、ひとりで行くのがピッタリだと思います。

人の興味はそれぞれで温度差というものがあります。

前から行きたいと思っていても、ハルカには興味がないものに合わせるのも悪いと思って行けませんでした。

なので今回はそこを主にまわってきました。

三条エリアのほんの一部です。



京阪の三条駅から三条大橋を渡って、三条通を西に向かいます。

まず見たかったのは、

「三条大橋擬宝珠刀傷跡」

幕末池田屋騒動の際に橋の上でも争いがあり、擬宝珠に残る刀傷。

橋の北側と南側の両方にあり、これは南側。

西から数えて二つ目の擬宝珠にあり、北側も西から二つ目にあるそうです。


ここに刀傷跡があるのを知ったのは京都の勉強をしてからです。

現地には「これが刀傷跡の擬宝珠です」という表示がなく、知らない人は多いのでは。

池田屋跡は三条通の北側にありますが、今回は南側を通りました。


橋の下は鴨川。

鴨川を見れば必ず1枚は写真撮ってしまいます。


「三条小橋」です。

「昭和初期の三条小橋」と「高瀬川生州」の説明書があります。

生州料理店の発祥の地と書かれています。

昭和初期にはまだ池田屋の建物はあったようです。

上の写真に池田屋跡の居酒屋池田屋さんが見えます。


左の碑には「角倉扇碑と高瀬川沿革図は三百メートル下る」と書かれています。

次回には是非行ってみたいです。

木屋町通になりますね。


角倉了以は名前はよく出てきますが、まだざっくりとしか知りません。

角倉了以は、戦国時代から江戸時代初期にかけての京都の豪商で、朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、私財を投じて山城の大堰川と高瀬川を開削したそうです。


「三条名店街商店街」が見えてきます。


その商店街内の「リプトン三条本店」に入り、早めのランチしました。

近くのスマート珈琲店は行列ができていてやっぱりなと思いました。


ランチメニューの「海老クリームコロッケとハンバーグランチ」

ライス、ドリンク付き。

本当は食後にホットコーヒーがいいのに、1人だとついアイスコーヒーを料理と一緒にと言ってしまいました。

プレートのカップに入っているのはサラダドレッシングです。

どれも普通に美味しいって感じでした。


いつもランチを食べている間、これからどんな楽しい時間が待ちうけているのやろとワクワクし、早く行きたくてウズウズしてきます。


「リプトン」を出て西方向へ。


三条通から「新京極商店街」の中へ。

ここがカクンと落ちるような坂になっていて「たらたら坂」と言われる京の不思議とされる所なのだそうです。

坂を下がる時にかかとに草履が当たって「たらたら」と音がするからとついた名称だそうです。


高低差は1メートルほどの緩やかな坂。

すぐ西側の寺町通にも東側の河原町通にも坂はなく、ここだけなのです。


《鴨川は平安時代後期ごろから気候変動の影響で、鴨川水流の河床を削る力が強まった。

その結果、鴨川と周辺の土地の間に高さ2mほどの侵食崖が形成され、鴨川の河原と周辺の段丘というように、高低差が生じていった。

これ以降、平安京の左京エリアに人々は安定して居住するようになった。

これが現在の京都市街地になっていく。


次に変化したのは豊臣秀吉による京都改造だった。

1590年(天正18年)秀吉は京都東側の玄関口として、鴨川に三条大橋を設置した。

さらに地面が低い鴨川の河原に堤防状に土を盛り、その新たな道路を開き、それが今の三条通となる。

その結果、当時の河原を通行するところのみ、三条通の両側に傾斜が生まれた。

だが、市街地に入った道は侵食崖上の土地を通るため、周囲との高低差がなくなる。

そこで生まれたのが、たらたら坂である。


不思議なのは、三条通から新京極につながる箇所だけが坂になっており、寺町通と三条通がつながる箇所は平坦である。

これは、寺町通は秀吉の改造前から市街地であるため、三条通とは高低差は生まれない。

一方、新京極通はもともとの鴨川の河原を通るため、三条通との間に傾斜が生じた。

これが、たらたら坂である。》


わかるようなわからないようなですが。

でも、何気に何回も通っているのにそんなこと考えたことがありませんでした。

京都って数メートル歩いただけでも歴史が感じら、あらためて面白いなと思いました。



新京極通を通っての目的地は「誓願寺」です。



上京区の西陣地区に元誓願寺通という東西の通りがあります。 

オレンジの色の通りで、北側には西陣織会館、南側には晴明神社があります。

平安時代以前、天智天皇の勅願で奈良に創設され、その後この地に誓願寺はあり、豊臣秀吉の寺町政策で天正19年(1591年)現在の新京極に移されたそうです。



「新京極 誓願寺」

通りに面していてここも幾度となく通っていたのに、ずっとスルーしてました。


本尊の阿弥陀如来様は薄暗いながらも通りからお顔が見えるんですよ。

この街の人たちをいつもお守りしてくださっているようですね。


《浄土宗西山深草派の総本山。


洛陽三十三所観音霊場第二番札所


「迷子みちしるべ」という石碑。

高さ2.6m、幅40cmの石標。

訪ねる人(迷子)を探すための掲示板・伝言板。

正面に「迷子道し留偏」、右側に「おしゆる方」、左側に「たずぬる方」と彫っていて、そこに紙を貼って探し出した。

新京極が京都最大の歓楽街になって迷子が続出したため、明治5年に建立された。》


境内の中へ入ります。



「扇塚」

《世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一編上人が主な役となって、誓願寺の縁起と霊験を物語る。


謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踏など芸能の世界で尊崇され、江戸時代からその筋の人が数多く参詣した。

舞踏家の中に誓願寺の和泉式部信仰があった。


その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踏家がおり、扇塚に芸能上達を祈願して「扇子」を奉納することに深い歴史的な意味が秘められている。


また、55世の住職・安楽庵策伝(策伝日快上人)は「醒睡笑(せいすいしょう)という笑い話を集めた書物を残し落語の祖と言われている。


(画像はお借りしました)


そのことも「扇子」との強い絆を保持する。》


本堂の階段を上がった左手に芸能上達を願う扇絵馬が掛けられています。


「北向地蔵尊」

格子窓の間からお姿を拝見できるようです。



本堂は大きく、なんとなく独特な雰囲気がします。



本堂の正面に座っておられる阿弥陀如来様は大きいです。

向かって右手の脇壇に十一面観音菩薩様が祀られています。

「ひとこと観音」と呼ばれ、なんでも一言で願いが叶うそうです。

もとは同じ新京極の長金寺に祀られていたのが、明治初年、廃寺となったため、ここ誓願寺に安置されたそうです。

御朱印は洛陽三十三所観音霊場のをいただきました。

他の御朱印は何種類もあり、和泉式部が表紙の御朱印帳は綺麗です。




また誓願寺は、平安時代の歌人、清少納言が仏門に入った寺院としても知られ、女性の信者も多いそうです。


《清少納言は誓願寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵を結び、その後、念仏して往生をとげた。

また、豊臣秀吉の側室松の丸殿も深く関わり往生し、誓願寺は女人往生の寺といわれる。》


松の丸殿は知らなかったのですが、検索して読むと秀吉の第二の側室で淀殿と仲が悪かったそうです。

醍醐の花見の際、秀吉からの盃の順番をめぐって2人が争い、北政所が仲裁した話は有名だそう。

また、秀頼公の息子の国松公がわずか8歳で処刑された亡骸を引き取り誓願寺に埋葬したそうです。

松の丸殿に視点を当ててみると、興味が湧いてくるのですが、ブログが終われないので今回はこれだけで。


清少納言は、枕草子を毎晩一段ずつでも読んでいるのですが、現代語訳がわかりやすいからか、とても面白いです。

サマーウイカさんの清少納言のように、好き嫌いをはっきり言い切る人のようですね。

当時の貴族の人たちの生活や様子など、絵巻などを見てもふう〜んという感じですが、枕草子を読めば生身の人間がいきいきと描かれていて、その様子が想像できて面白く身近に感じてきます。

そして想像しやすいのは、大河ドラマ「光る君へ」のおかげですね。

製作に携わった方たちは本当に大変だったと思います。


今回はここまでです。


読んでくださり、ありがとうございましたおねがい