桜の京都のブログを書いた後は、再び北野天満宮の方に戻ります。
2021年の夏に北野天満宮に訪れた時、二の鳥居西側にお寺を発見。
予定になかった社寺でも目につくと引き寄せられるように入って行きたくなります。
それは「東向観音寺」です。
明治時代の初め、神道を国教とする考えがあり、1868年(明治元年)神仏分離令が出され、神社から仏教的なものが除かれました。
《かつての北野天満宮も神仏習合の神社であったが、明治初めの激しい廃仏毀釈のため、御堂など破壊されたり、移転したりした。
神仏分離とはいうものの、実態は激しい弾圧であった。
京都は応仁の乱や禁門の変、明治維新の廃仏毀釈などで破壊され再生されてきた。
私たちが今見る京都は、わずか百数十年前に造られた風景なのである。》
廃仏毀釈のそんな時代の中で、東向観音寺は北野天満宮の境内ではあるけれど、破壊を免れて現存しているのだそうです。
「東向観音寺」
《菅原道真が幼いころ勉学にはげんだところと伝わる。
真言宗泉涌寺派。
お寺の多くは南向きだが、本堂が東に向いている。
創建は平安初期。
桓武天皇の勅願寺朝日寺を前身としている。
江戸時代には北野天満宮の神宮寺から離れたため明治の逆風でも当地に残った。
皇室とのゆかりが深い泉涌寺派の末寺だった関係で特別な配慮があったのかもしれないとのこと。》
「本堂・礼堂」(2021年6月29日に撮影したもの)
《豊臣秀頼が北野天満宮を再建の際に建立した。
本尊は菅原道真自作の十一面観音菩薩。
応和元年(961)年、九州太宰府の観世音寺から移して安置されたとされる。
江戸時代には公家の一条家の祈願所となり、明治天皇の皇后・昭憲皇太后は入内前にここで勉学に励んだという。》
「岩雲弁財天」
この寺の鎮守神。
豊臣秀頼が本堂を再建した時に弁財天を祀る。
財運招福、家内安全の祈願所。
東向観音寺には他にも「白衣観音堂」「行者堂」などがあります。
奥に行くと。
《菅原道真の母・伴氏の廟。
石造の五輪塔。
もとは天満宮の境内にあったが、仏教的な塔ということで明治時代になってここに移転された。》
大きな五輪塔ですが、角度により正面から撮ることができず、これが精一杯でした。
北野天満宮に参拝する人の数にしては、東向観音寺に訪れる人は少ないのではと思います。
でも、豊臣秀頼によって再建された本堂。
洛陽三十三所観音巡礼の札所で、菅原道真公自作の十一面観音菩薩。
京都の社寺や歴史が好きな人にとってはたまらんやないですか?
それともう一つ。
ここには魔界の話もあるんですよ。
伴氏廟の左側にある祠。
「土蜘蛛塚」
《土蜘蛛を祀った塚はかつて一条七本松の清和院の隣側にあったが、明治時代の再開発で取り壊され、その遺物を持ち帰った人の家運が傾くなど不運が続いたことから、大正時代に同寺に移されたという。
現在は祠の中に遺物として、長い年月で風化した灯篭の火袋部分が祀られている。》
魔界の話は書く人によっていろんな言い伝えがあるようですね。
「土蜘蛛」の話はざっとこのような話ですかね。
《土蜘蛛とは、もともとは朝廷に逆らう土豪、土蜘蛛一族のことであったようだが、しだいに物の怪となっていった。
源頼光が病に臥していた時、枕元に怪しげな僧が現れたが、源氏の宝刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げて行った。
頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)を率いて血痕をたどっていくと、北野天満宮の裏手で巨大な蜘蛛を発見し退治した。
以来、膝丸は「蜘蛛切」とも呼ばれるようになった。
膝丸は多田源氏の祖である源満仲が作らせたと伝わり、源氏重代の刀として伝来した。
膝丸という名前の由来は、満仲が罪人で試し切りをしたとき、両膝を一度に切り離したことによるといわれている。
大覚寺所蔵。》
刀剣好きな人も見たいかもしれませんね。
洛陽三十三所観音巡礼・第三十一番札所の御朱印をいただきました。
元はと言えば、前回御朱印をいただいた時に、受付のかわいいおばあちゃんが、
「洛陽三十三所観音巡礼の御朱印もありますよ。京都市内だけだからまわりやすいですよ」
と、教えてくださいました。
それで始めてみようかなと思ったのです。
御朱印を書いて下さる人は別の人で、またその人に書いてもらいましたが、かわいいおばあちゃんはいてはりませんでした。
最初にまわったのは清水寺ですが、この東向観音寺とのご縁が観音巡礼の始まりとなったのです。
読んでくださり、ありがとうございました