2月26日の北野天満宮。

梅苑「花の庭」の他にも宝物殿で「春の特別公開」が開催されていました。


「宝物殿」

《創建以来、皇室をはじめ公家、武家、商人ら多くの人々の篤い崇敬を受けてきた北野天満宮。

数多くの宝物が奉納され、今に伝えられている。

なかでも、「北野天神縁起絵巻 承久本」は、根本絵巻といわれ、絵巻物の中では特に優れた作品として、また貴重な歴史財産として国宝に指定されている。


ほかにも古文書、書画、刀剣、絵や金工、茶道具といった美術的にも価値の高い工芸品を多数所蔵している。》


宝物殿が公開されるのは、毎月25日、観梅、青もみじ、紅葉のシーズンなどです。



(画像はお借りしました)

《宝物殿は昭和3年(1928年)、1025年半萬燈祭に際し、それまで本殿の内部に収められていた様々な神宝をのちの世まで守り伝えると同時に、多くの人々が見れるようにという願いのもとに建てられた。

格天井に、当時としては最先端のシャンデリアを備えた和洋折衷様式の堂々たる建物。

指物師により作られた展示ケースも歴史的に大変価値のあるものといえる。》



「宝物殿 春の特別公開」


《梅の季節を迎えるにあたり竹内鳳凰の「紅白梅図」、現在中の「墨梅図」など天神様に捧げられた梅の絵図、そして辰年にちなみ重要文化財の海北友松筆「雲龍図屏風」(高精細複製)を特別公開。


また、同じく重要文化財の太刀 銘 安綱 「鬼切丸 髭切」をはじめとする北野刀剣約 20振りを一挙公開。》


(画像はお借りしました)

今年は辰年ですからね。

迫力がありました。



竹内鳳凰筆「紅白梅図」


この下絵になったのが、一の鳥居の狛犬の台座なのですね。

好きな絵です。



《北野天満宮の御祭神の菅原道真公は武術にも優れており、「北野天神縁起絵巻・承久本」には、観衆の前で弓を引く姿も描かれている。》


(画像はお借りしました)



刀のみ撮影はOKでした。





これは豊臣秀頼公により奉納された「太刀 國広」(重要文化財)


《この宝刀は北野天満宮に奉納するためだけに信濃守(堀川)國広が打ったもので、ともに伝わる拵えには御祭神と縁の深い梅鉢紋と三蓋松の蒔絵が施されている。》



これが 太刀 銘 安綱 「鬼切丸(髭切)」
重要文化財。
平安時代。

《最上家に伝来し、明治時代初頭に神社に奉納された。

さまざまな逸話をもつ刀であるが、そのうちの一つ


「渡辺綱の鬼切伝説」


平安時代中期の武将・源頼光四天王の1人として知られる渡辺綱が、夜中に一条戻橋を通りかかった。

そこにいた女を家に送り届けようとしたところ、女は途中で鬼に姿を変えて空を飛び、綱を愛宕山に連れ去ろうとした。

北野天満宮の上空にさしかかるやいなや、綱は太刀で鬼の腕を切り、拝殿に落下して事なきを得たという。

後日、綱は神恩に感謝し、石灯籠を寄進した。

こうした由来が尊ばれ、神社に鬼切丸が奉納されたと考えられる。


また、鬼切丸は厄除けの刀として有名で、江戸時代の参勤交代にも携帯されたという。


他にも、前田家といった武家からも篤く信仰され、多くの刀剣が奉納されてきた。》



「北野天神縁起絵巻 承久本」


《菅原道真公の一生と、死後神として祀られるまでの様々な逸話・伝説を描いている。

中世からさまざまに語られ、描かれてきたが、その中で未完ではあるが最大最古の大作が、この「北野天神縁起絵巻 承久本」と呼ばれる絵巻である。

少なくとも承久年間には成立していたことからそう呼ばれる鎌倉時代の絵巻。


この絵巻の特徴は、その画面の大きさである。

普通の絵巻では料紙が横に繋がれているのに対して、承久本は料紙を縦に継がれており、縦50cmを超える大画面は圧巻である。


物語は「幼児顕現」と呼ばれる、ある日突然道真が父となる是善卿のもとに現れる場面に始まる。

(画像はお借りしました)


文武両道の青年期、宇多天皇より信頼を得て位人臣を極めた壮年期など、人としての道真の偉業が称えられる。


右大臣になった菅原道真公。


続いて。

左大臣 藤原時平の讒言により、延喜元年(901年)太宰府に左遷されることになる。


宇多法王に別れを告げに行く道真。

(たしか仁和寺でこの時の話があったのでは)


道真が都を発つ際に、こよなく愛した梅の木に別れを惜しんでる。


「東風吹かば にほひをこせよ 梅花

主なしとて 春なわすれそ」


太宰府に左遷された道真の暮らしは貧しく寂しいものであった。

この絵は、道真が流されてからちょうど1年経った9月10日の宵に、昨年の同じ日に天皇から賜った衣を取り出して、都を偲びながら嘆いているところを描いている。

屋根に苔むしたあばら屋、茫茫と草の生い茂った庭、そして無念そうな表情の従者たちを前に、衣にみとれる道真の表情が、情緒豊かに描かれている。


そして、2年後の延喜3年(903年)2月25日。

道真は望郷の念を抱きながら、失意のうちに59歳で生涯を閉じた。》



私は怖がりのくせに京都の魔界の話が好きで、怨霊となった菅原道真の話はどの本にも出てくるので面白いです。


《道真が病死してまもなく、京では洪水、疫病の流行、旱魃(かんばつ)と次々に災難が起こる。


縁起絵巻には、雷が2回清涼殿に落ちたと描かれている。

これは1回目。

「雷神に向かう時平」


(左端に刀を持った時平がいます。)


一度は鎮まったものの、陰謀の張本人とされる藤原時平が39歳の若さで病死。

その他にも、道真左遷に関与した藤原菅根が病死。

道真の後任となった源光が溺死。

醍醐天皇の皇子で時平の甥になる保明親王が21歳で病死、孫も病死する。

これらは道真の怨霊のせいだと噂された。


これは「清涼殿へ二度目の落雷」

延長8年(930年)6月。清涼殿に2度目の落雷。

時平を呪い殺した怨霊が、それでも満足することなく、多くの死者を出す。


ついには醍醐天皇も病に倒れ、9月には朱雀天皇に譲位し、その1週間後には46歳で亡くなった。


道真の祟りだと恐れた朝廷は、慌てて名誉回復をはかった。

右大臣に戻した上で正二位の官位を授け、雷神として北野天満宮に祀った。

そして生前の優秀さから学問の神として崇められるようになった。》


今回見た縁起絵巻は、紅梅に別れの歌を詠む場面と2度目の清涼殿落雷の場面でした。


これで北野天満宮を後にしました。



北野天満宮にお詣りするのは今回で2度目で、前は2021年6月29日にレミと行きました。

その日の北野天満宮です。


新型コロナの緊急事態宣言中にはどこにも行きませんでしたが、解除された時には出かけていました。

北野天満宮は人が少ない時期もあるかもしれませんが、自粛中はやはり特別だったのでしょう。


「一の鳥居」

幟に「夏越の大祓 六月三十日」と書かれています。

七夕飾りもありました。


「二の鳥居」


「三の鳥居」


そういえば、いたるところの撫牛さんのそばには消毒液が置かれていました。


「楼門」

どの寺社もコロナ対策の注意書が示されていましたね。


「茅の輪」

北野天満宮の楼門の茅の輪は直径約5mあり、京都最大級だそうです。

2021年は密を避けての分散参拝ができるように、例年より2週間ほど早く設置されたそうです。


6月30日の神事は、一般の人が列をなしての茅の輪くぐりは行われなかったのではと思います。


「花手水」

ひまわり


紫陽花


「なで牛」


「三光門」


「本殿」


「飛梅」

緑の葉と七夕飾りで、梅の季節とはまた違った夏らしい華やかさがありますね。


今年は梅の花ばかりに目がいっていたのですが、この時にはちゃんと写真に撮っていました。


「渡辺綱の石灯籠」



《「平安時代、一条戻橋で鬼に襲われた渡辺綱は、名刀鬼切丸で鬼の腕を切り落とした。

後日、綱は天満宮のおかげと感謝し、寄進したと伝わる石塔篭。

重要美術品。》


「本殿」

紅色と「星梅鉢紋釣灯籠」がとてもいい感じです。



「御后三柱」


社殿を横から。

「権現造」(八棟造り)



本殿    石の間    拝殿


「拝殿」


「文子天満宮」の鳥居


「牛舎 絵馬掛所」


「史跡御土居の紅葉」の碑

青もみじの御土居が見たかったのに、残念ながら数日前に終わっていました。



あれ?ここどこやろ?
こんな所あったっけ?と思っていたら。


この辺りでした。

三光門の南西辺り。


「紅梅殿」だったのですね。


《平安時代、菅原道真が住んでいた邸宅「紅梅殿」の名をつけ、御祈祷や神前結婚式、曲水の宴などを行う由緒ある御殿。

紅葉や梅花の時期には、紅梅殿前に広がる「船出の庭」も美しく彩られる。》


私たちがいた間、まわりは数人だけだったと思います。


紅梅殿の前。

「きたのみたらし水占みくじ」をするレミ。

まだ大阪にいて私たち家族と一緒に住んでたんですよね。


「船出の庭」

《令和9年斎行の「千百二十五年 半萬灯祭」に向けて境内整備の一環として、平成27年(2015年)に作庭された。

船出の庭は、菅原道真の邸宅に実際にあった庭園で、北野天神縁起絵巻などを参考に再興された。》


「連歌所の井戸」



この辺りは航空地図には"梅花祭"と書かれています。

2月25日のこの日は野点大茶湯が行われます。
(画像はお借りしました)



26日に行った時、立ち入り禁止区域の中に紫色と白色の幕のようなものが見えていたので、その場所だったのですね。


北野天満宮といえば梅なのでしょうが、緑の北野天満宮も綺麗で、七夕飾りもきらびやかで、そして人の少ない社は「いと清々し」でした。


今はコロナ禍が完全に収まったとは言えませんが、この頃のことはいったいなんやったんやと思えるほど元に戻った気がします。
でも先日、この頃に撮っていたテレビ番組を見返した時、「緊急事態宣言」と大きな災害時の画面であり、「◯◯県 感染者数◯◯◯人 死者◯◯人」と流れていました。
これを見ると、当時は本当に怖い世の中だったのだなと思い返しました。

菅原道真の死後に疫病や大洪水、落雷などが起こり、当時は道真の怨霊のせいだと神として祀り、世の中を鎮めたという。
天地異変が多いのは近年も同じ。
怨霊など通じないこの時代、どうやったら鎮めることができるのかな、なんて思ったりします。


次からは北野天満宮辺りの社寺などを書きます。

読んでくださり、ありがとうございましたおねがい