木村栄文監督『祭ばやしが聞こえる』(RKB毎日放送 1975.1.24放映) | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 各SNSで様々な人が皆テンション高めに紹介しているのを見かけて興味を惹かれた本作。何を皆そんなにテンション上げて紹介したがる?……と訝しみ、観る前に少し情報を仕入れてみて納得。木村栄文って、石牟田道子の『苦界浄土』のドキュメンタリーも製作している人じゃないか。以前よりその存在は知っていて、機会があれば是非この人のドキュメンタリーを観てみたいと思っていたので、僕も同じようにテンション上がってしまった。
 これは是が非でも観ねば!
 そして実際に観てみれば、これがもう惑うことなく大傑作。
 木村栄文と作家で詩人でもある森崎和江が九州の香具師の世界に取材。その成り立ちや掟、そこに生きる渡世人たちの日常や人柄を丹念に追ったドキュメンタリー作品だ。在日朝鮮人部落の祭りの風景も途中挟まれて、既に失われてしまった習わしやコミュニティを記録した資料的価値としても一級。しかし何より純粋にドキュメンタリーとしてのクオリティが傑出している。何が良いって木村栄文も森崎和江も渡世人たちの懐にしっかり入り込み信頼を勝ち得ているところだ。同じ地に立ち、同じ目線で、それぞれ人情を育みながら取材をしている。二人のそんな誠実さが映像を通して如実に伝わってくるのだ。この一時間二十分のドキュメンタリーを製作するにあたり、どれだけ足繁く現地へ向かい、打算なき交流を繰り返したか、思いを馳せると胸に熱いものが込み上げてくる。実際に紹介さている映像の他に膨大な記録が残され、人と人との交流が培われている。容易にそれが察せられる。見えていないものが土台をしっかり支えている。それ故この奥深さなのだ。
 特に渡世人の一人、宮藤朋真と森崎和江の交流が良い。香具師の仕事の傍ら折に触れて短歌も作っている少し変わり種の渡世人。番組冒頭に紹介されて、その後も折に触れて登場する。本作では地元の香具師の世界を纏める親分さんに次いで登場する主役級だ。
 この宮藤さんが見るからに魅力的。この人に時間と映像を多く割きたくなる作り手の気持ちが実によく分かる。
 何が良いって森崎和江への接し方。
 まずは番組で紹介された宮藤さんの短歌を一つ紹介しよう。

妥協なき会話終わりて帰る午後けものの如く乾く手のひら

 この歌に止まらず、他に紹介された歌も皆、砕花と名乗って詠まれたそれらは生半可なレベルではない。短歌は勿論、他の文芸作品もそれなりに吸収していないとこのレベルはものせないだろう。宮藤さんにとって文芸は付け焼き刃の戯れではない。間違いなく若い頃から夢見てきた世界だ。文芸に対する秘めたる思いを胸に、生活のために渡世人稼業を続けてきた。それが宮藤さんだったのだろう。
 そんな宮藤さんにとって森崎和江は眩しくて真っ直ぐ見ることも出来ない憧れの存在だ。作家として、詩人として立派に身を立てている女性。それは宮藤さんにとって羨望の対象であり、敬意を払って然るべき存在。そんな女性を前にした畏怖。と同時にそんな女性と交流が出来る喜びが、画像を通してダイレクトに伝わってくる。その純朴さは見ていて微笑ましく、かつ少し照れ臭さも覚えるほどだ。
 夕暮れの土手で自分の短歌が記されたメモ帳を森崎和江に見せて嬉し恥ずかしそうな宮藤さん。その中の一首、遠くにて君を思う……的な内容の歌を紹介して、「これ先生のことを思って書いた歌」と打ち明ける宮藤さんのその時の表情、その雰囲気は、完全これマドンナを前にした時の寅さんだ。
 高嶺の花に対する淡い恋情。隠しきれず短歌を使ってつい吐露したその思い。繊細な含羞が感じられるその時の宮藤さんの雰囲気が実に良い。そしてその告白に満更でもなさそうな森崎和江も実にチャーミングだ。如何にも昭和のおばさんという風情。それでいてマドンナ。煤けた初老男女のプラトニックな情愛が、見ていてとても愛おしい。
 番組終盤に挟まれたこの二人のやり取り。本作の僕にとってのハイライトは間違いなく、夕暮れのこの土手の情景。二人の間でそれまでに培われてきたものが如実に窺える優しい束の間だった。
 渡世稼業に疲労感を滲ませつつ、他者への無邪気な信頼と含羞を失わず併せ持つ宮藤さんの存在。そしてマドンナとして屈託なくその交流を受け止め楽しむ森崎和江。この二人の関係性が本作の確かな要となっていた。
 本作は最後、森崎和江の以下のナレーションとともに幕を閉じる、
「私はこの後も、折に触れて祭りに出かけて行くことでしょう。そして感じ続けると思います。家を飛び出してテキ屋となった若者の心や、彼を案じている親御さんのことや、雨の日のお年寄りのテキ屋さんの胸の内や、老いるまで下積みで苦労するであろう人々の人生について、などを」
 膨大な時間を共有した実感と人情に裏打ちされた、哀感のあと味が残るナレーション。そんな彼女も又、二年前に九十五歳で亡くなっている。
 本放送されたのは1975年の本作。登場人物にその後に流れた歳月にしばらく思いを馳せた。
 あと一つ蛇足ながら付け加えると、これは渡世人だけではなく時代そのものが宿していた野卑なエネルギーを本作からは絶えず感じ取れた。そこも本作の一つの魅力だった。