自分だけの記念写真を。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 観光業界ダダ潰れたコロナ禍の惨状を何とか抜け出て、最近は京都も以前の賑わい、否、それ以上の観光客で日々ごった返しているらしい。人、人、人の賑わい。それ故、各地の観光スポットを写真に収めようとすると、どうしても見知らぬ誰かの姿が写り込んでしまう。あまた人の狭間にしかお目当てのそれを写せない。それで最近、「朝の六時台なら、まだ人の少ない写真が撮れるぞ」という情報が出回った。これに関しては僕もTwitterを通して見かけた記憶が残っている。
 しかしそんな情報は瞬く間に共有されてしまう。今はその情報を当てにした観光客で、朝の六時台から早々各所ごった返すらしい。そして暮らしをそこで立てている住人は朝も早くからの煩さに辟易しているという。
 難儀な話である。
 考えてみれば、いや、わざわざ考えるまでもなく、何も京都に暮らしている人が皆、観光客を当てに生計を立てているわけではない。観光業とは無縁の一生活者にとって観光客など、自分らの生活を脅かす「害虫が沸いて困ったものだ」程度の認識だろう。「ゴキブリも眠っている朝もはよから、ほんまに元気でおますなぁー」と京都仕草の嫌味の一つも投げかけたくなるかもしれない。
 そもそも記念写真に関しては前から思っているが、旅行に出かけた先での観光スポットを人の姿なく写すことが、そんなに充実感に結びつくのだろうか? これは一緒によく旅行に出かける連れも人の姿が写り込んでいない完璧な風景を切り取りたがるので、割とその辺にこだわる人は多いのだろう。しかし人の写っていない名所スポット、例えば京都だと神社仏閣になるのだろうが、そんなものは観光パンフレットで幾らでも見られる。今はインターネットを通しても簡単に拾えてしまう。そんなありきたりな写真より、自分の旅の思い出に切り取る風景には、寧ろ偶々その時居合わせた他の観光客とかも写り込んでいた方が味わい深く感じられるけれどな。地元民の何気ない暮らしの一コマとか。遊ぶ子供らの姿とか。ちょっとした生活の断片、例えばベランダに干されている洗濯物とか……。
 どう考えても後で見直して、そっちの方が楽しい気がする。
「家族旅行で写真を撮る際は、子供たちのアップの写真より、遠景も写り込む構図を意識した方がいいぞ」
 これもTwitterで仕入れた話だが、ある人が結婚して子供が産まれた際、職場の先輩からそう助言を受けたという。子供たちが成長して、その写真を皆で見返す時、盛り上がるのは子供の頃の自分たちの姿ではなく、寧ろその一枚に写り込んでいる他の情報の方だからだ。例えば当時は何の変哲もなかった町の看板がやけに懐かしいものとして再発見されたり。偶然写り込んだ見知らぬ人の姿にロマンを感じたり。よく見ると謎の奇妙な生物が写り込んでいたり。え、未確認飛行物体?……とか。
 要は情報量が多ければ多いほど、歳月が流れてから見直す際の味わいが増す。そしてその情報量は遠景を出来るだけ多く切り取る事で断然いや増す。という話だ。
 これに関しては僕も納得。セピア色の写真、今はセピア色に変色することもなくなったが、あくまでも象徴としてのセピア色の写真を見返す際、一番感慨深いのはその一瞬に切り取られた、その瞬間の情景だろう。それは他の写真では代わりの利かない唯一無二の景色だ。個人的な旅の思い出として目指すべきはパンフレット写真ではなくそちらだろう。
 自分のお目当ての鉄道写真を撮るため、あちこち撮影旅行に出掛けている鉄道オタクたち。しかし彼らはどれだけ旅を重ねても本当の旅情を知ることはないだろう。完璧な、まるで絵に描いたような一枚の鉄道写真にこだわって、そこに暮らす地元住民を口汚なく罵り排除しようとする。駅員に暴言を吐く。交通の妨げになっていることも意に介さない。
 地元民との情こまやかな交流など望むべくもない。寧ろ非常識なまでに横暴で無礼な言動の数々。その挙句に切り取った完璧な鉄道写真。後年こんな絵空事のような写真を見返して、一体どんな懐かしさや情感が湧くというのか。他者に対する思いやりや想像力を育むことで得られるロマン。そんなささやかだけれど大切なものを知る由もない。単に交通費ばかり重ねて実際の旅を知らない。骨の髄まで憐れ悲しい連中。鉄道オタクの全てがそうではないのだろう。しかしSNSで時に拾える動画に映る鉄道オタク見れば暗澹たる気分にならざるを得ない。どういう生き方をすれば他者にあれだけ非礼になれるのだ? 寧ろあれだけ他者に非礼を繰り返して心を病まないのが不思議だ。いや、既に病んでいるのだけれど、己れの病に無自覚に生きて行ける神経にはある意味感心させられる。ある意味だけれどね。
 御満悦ですか? 完璧な、だけど面白みのまったく感じられない写真を撮れて。その代償として他者の尊厳を踏み躙り、とことん己れの存在を醜悪に腐らせて。本当に、それで楽しいですか?
 あいつらにはどうせ届かないだろうが。