西尾散策で見かけた横たわる松。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 先日の勤労感謝の日、勤務明けを利用して西尾駅の周辺を散策した。
 まずは西尾城が建つ西尾公園。その資料館で地元の歴史を学び、公園内に移築された旧近衛邸で地元の名産の抹茶を饅頭と共に堪能。その後、尚古荘で紅葉の庭を愛で、昼食にトンカツ屋でエビフライに生ビール。連れのスマートフォンのトラブルで、写真撮影のためだけに再び西尾公園に戻り、その後は味噌蔵見学。味噌のお土産購入。そして神社仏閣巡り、〜康全寺、城下町が名残る肴町通り、順海町通り経由で、唯法寺、崇覚寺、伊文神社、盛巌寺、そして偶然にも前回の朝ドラの主人公のモデルとなった牧野富太郎展が充実していた岩瀬文庫をゴールとするコース。紅葉の色づきは正直中途半端だったけれど、天気にも恵まれて良い散策の一日を過ごせた。戦国時代に築かれた城下町だけあり、道の作りが折れ曲がったりジグザグだったり、平時には無駄が多いと歩いていて気づけたのも、ブラタモリ的味わいが感じられてよかった。
 今回参考にしたのはインターネットで拾った散策コース。基本的にその順路通り実施した。詰め込み過ぎの慌ただしさもない。かといって物足りなさもない、紅葉を愛でながら、まったり散策するに良いコースだった。
 しかし今回の散策で一番感動したのはコースに組み込まれていた目的地の一つではない。目的地を一つ一つ順番に巡っている道中の、たまたま見かけた神社の境内にその感動はあった。
 どこの町にも一つならずありそうな取るに足りない小さな神社。本来なら一つの記事に落とすほどの神社でもない筈だ。しかしその猫の額ほどの境内に僕の感動が横たわっていたのだ。
 それは小さな境内には勿体無く感じられる幹も立派な巨大松。しかし根本から大きく折れ曲がり、既に空を目指すことは出来なくなっていた松。まさに横たわるというのが相応しい、二本の添え木に支えられてようやく己が身を根づかせていた松だ。
 樹齢どれくらいになるのか素人には判断が付き兼ねる。しかし幹の太さからいって、まず間違いなく百年以上は、いや、恐らくもっと長く、この境内に根づき続けてきたかもしれない松。あるいは江戸の世から根付いていた可能性もある。何れにせよ、今はこの周囲の住民から神木として親しまれてもいるのだろう。
 そんな松が、いつ倒れてその命を終えてもおかしくないギリギリの状態で、何とかまだ息づき、その根を張り続けている。この松を生かしたいと願う人たちに添え木を与えられ、まだ風雨に耐えている。
 あくまでも想像に過ぎないが、そんな風に思いを巡らせながらその松を見ると、この地に根づいて生きる人たちの代々の思い、そしてそんな人間の営みを感じ続けてきたであろう松の豊かさがひしと胸に沁みたのだ。何だか強いな。そして優しいな……と。
 松の根の傍らには古ぼけたブランコ。
 このブランコで遊ぶ子供たち。子供が親となりその子供を遊ばせる姿。そんな営みも見守り続けてきたのだろう。
 正直ここまで折れ曲がってしまってはその命がいつまで続くか知れない。それでなくとも松は樹のなかでは寿命が短いと聞く。それなら尚更だ。
 それでも一日でも長くここに根づいていて欲しい。心からそう思った。この地に生きる住民はなおのこと愛しくそう思っているだろう。
 朝ドラの万太郎のような敬虔さで、今は身を横たえるその松に深々と会釈した。
 旅のガイドブックには載っていない。こういう出逢いも又、異郷の散策の乙なる味わいだ。