今は亡き小池くんを偲ぶセンチメンタルジャーニー。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 春の散策ついでに特別展を観るため向かった安城市歴史博物館。実際に訪れたのは今回これが初めて。しかし実は開館前からその名前、その存在は知っていた。地元の人間でもないのに、なぜ?……というと、実は高校時代の友人が高校卒業直後、土建屋でしばらくアルバイトをしていた時期があって、この安城市歴史博物館にも仕事で携わっていたらしいのだ。
 友人の小池くんが就いていたのはタイルやカーペットを床に貼る仕事。土建の仕事にはあまり詳しくないが、まぁ素人にもわかるのが、それが建築の最終仕上げだということだ。当時会うとアルバイトでゆく現場の話をよくしてくれて、その中に安城市の博物館の話も出てきた記憶が朧げに残っている。高校卒業後、僕はすぐ工場に勤め始めたので、仕事であちこち行ける小池くんに羨ましさを覚えていた気がする。今日はあそこへ行った、この間はあそこへ……と楽しそうに語る小池くんが、いつも同じ場所で同じことを繰り返す日々に倦んでいた身には、きっと妬ましかったのだろう。
 あるいは記憶違いの可能性もあると、試しに安城市歴史博物館のWikipediaをチェックしてみれば、1991年に開館と書かれてあるので、小池くんが語っていたのがこの地なのはまず間違いないだろう。高校卒業した年の夏ごろのことだったので、その時期に最終仕上げの床張り。その後に展示物を運び込んだりの準備を経て、翌年の二月に開館となれば、計算が十分これ合う。
「周りの風景ものどかでいいし、そのうち一緒にこの辺をドライブでもしようよ」
 そう誘われたのも思い出す。僕は「いいね!」と頷いたものだ。
 結局その約束は、しかし果たされることはなかった。今後もその約束が果たされる可能性は100%ない。およそ十年前、四十歳そこそこの若さで小池くんは亡くなったからだ。いつしか職を転々とするようになり、アルコールで現実逃避するようにもなり、生活も荒み、その荒みが表情から輝きも奪い、結局は不摂生が元で早逝に至ったのだ。
 あるいは小池くんにとって最も輝いていた時期が、高校時代から卒業後の数年だったのかもしれない。当時は、「アルバイトで人生経験を積みながら、いつか音楽を中心にフリーライターとして生計を立てられるようになりたい」と語っていた小池くん。今の時代ならば、何を子供っぽいことをと一笑に伏されるだろう。いや、実は当時も小池くんのその夢を青臭いと感じながら聞いていた気がする。しかし当時はまだ若者のそんな愚かさ、計画性のない夢見心地な生き方を受けとめる鷹揚さが世の中に十分あったのも事実だ。
 今にして思えば豊かさが失われてゆく九十年代以降の、次第に閉塞感に包まれるようになっていった時代の変化に上手く合わせることが出来なかった。それが小池くんのその後の躓きっぱなしの人生の原因だった気がする。最後の五、六年は、一年に一度会うか会わずの疎遠になりかけていたのも、自分が最も輝いていた頃の幻影を追いかけているような小池くんに痛々しさを感じるようになったからかもしれない。いや、それも方便で、単に来るべき時が来て、縁も切れかけていた。それだけのことだったのだろう。しかし、こんなに早く亡くなると知れていれば、もっと頻繁に会っておくべきだったという一抹の後悔は、いまだ何処かで引きずっている。
 そんな小池くんへの感傷。更には若き日への諦念まじりの懐かしみを抱えて彼の地を訪れれば、博物館の敷地にある池に白鷺が舞い降りて、すぐに又羽ばたき去る姿が、まず目に止まった。スマートフォンで写真を撮りたかったが、残念ながら鷺が僕の前に佇んでくれたのは本の束の間。写真に切り取るに間に合わなかった。
 小池くんが亡くなって、はや十年。あるいは僕の前に一瞬だけ舞い降りたその鷺は、小池くんの転生した姿だったのかもしれない。遠い日の約束を果たすため、僕が訪れたと同時に、束の間だけ舞い降りてくれたのかもしれない……
 そんな夢想が鷺が去った後で俄かに湧いた。
 もちろん心から信じているわけでもない。これも又、小池くんが若き日に見た夢と同じくらい青臭い感傷だ。
 そもそも簡単に遠い日の約束と書いてしまったが、もう三十三年も前の話なのだ。流れた歳月に想いを馳せると目が眩みそうだ。
 そう、目が眩みそうなほど、歳月は流れたのだ。