https://www.youtube.com/watch?v=gPerIDHPnmE&feature=player_embedded
不肖の息子が普段は潜在意識の奥底深く押し込めている母への思いは、本来もっと素朴なフィーリングで表現されて然るべきような気がする。しかし実際それを歌に託そうとすれば、ここまで回りくどい表現になってしまう、その含羞が好きだ。そう、この歌がここまで複雑な現代詩という形にならざるを得なかったのは、遠藤ミチロウの母への思いが屈折してねじ曲がっているからではなく、寧ろ逆に、素朴すぎるほど素朴な母への愛を発露としているからなのだと思う。少なくとも僕はそう解釈している。
この面倒で難解な言葉のつらなりのその裏には、「お母さんに、会いたい。お母さんに、もう一度甘えたい……」という朴訥とした母への憧憬が確かに流れている。「ごめんね、出来の悪い息子で……」という贖罪の気持ちや、「お母さん、助けて!」という声にならぬ叫びや、そういう切実な母への諸々の思いが確かにね。……
しかしそういう母への素直な愛情をねじ伏せて、不肖の息子が世界と対峙して一人すっくと立とうとする時、そして、ねじ伏せられた母への愛を歌に託す時、その歌は結果的に、ここまで複雑怪奇となってしまう。実に面倒な話だ。しかしここまで面倒な手順と複雑怪奇な回路を経なければ、「もう一度お母さんの作った栗きんとんが食べたい…」という素朴な思いを表現する事など到底できない。そんな恥じらい多き青年の、多感な心の有りようを思いつつ、僕はこの歌を繰り返し何度も聴いている。勿論その時、自分の母への思いを重ね合わせているのは言うまでもない。
そう、僕も又、「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という意地と表裏なす、母への思いからは逃れられない。
「お母さん、僕はもう一度あなたの作った手作りピザを食べてみたいのです。あの、やたら甘ったるいアイスコーヒーと一緒にね……」と。
遠藤ミチロウ『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』