僕の腕時計の名前はセイコ | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 割と物持ちは良い方のような気がするけれど、名前を付けると愛着が湧いて、よけい長く付き合ってゆけそうな気はする。前々回の記事の続きのような話題になるけれど、名前を付けた身の回り品で一番長く付き合っているのは「セイコ」。高校の入学祝に親戚のおばさんが買ってくれた腕時計で、当時、松田聖子のファンであったという事実はない。単にその腕時計のメーカーがSEIKOだったから「セイコ」。……はい、僕はそういう安易な奴です。
 だけど当時ちょっと訳ありで羽振りの良かったその親戚のおばさん、相当奮発してくれたらしく、かなり値の張る腕時計をプレゼントしてくれた事を覚えている。実際、電池交換で時計屋に持ってゆくと、その時計を褒められることは度々ある。「この時計は今、プレミア価値が付いているから、大事にした方がいいよ……」と、つい先だっても言われた。まぁ高価な品か否かの前に、生まれて初めて自分の持ち物として腕時計を手に入れたことが嬉しくて、それで思わず名前を付けた当時の気持ちは今でも懐かしい。特に漢字を当てたわけではないけれど、セイコのイメージの中に、「静子」、「清子」、「聖子」、そして「成功」といった希望を漠然と重ねていたような処はある。清く静かで聖なる時を刻みたい、そして時の彼方に成功を手に入れていたい……といったイメージだ。
 しかし名づけた時の新鮮な気持ちは瞬くうちに汚濁にまみれ、セイコが僕の願った理想の時を刻んでくれることは、その後一度もなかったような気はする。それでも高校時代から以後、四半世紀以上の歳月にわたり、僕の外出の際の時をほぼ刻んでいてくれたのはこの腕時計、セイコであったのは間違いない(「絶えず」ではなく、「ほぼ」と綴らねばならないのは、二十代後半頃の一時期、他の腕時計に浮気していたからで、それは当時つき合っていたカノジョからのプレゼントで、そういう次第の浮気。だけどこれが安物だったせいで、すぐに電池は切れるは時間は狂うはで使い勝手が甚だ悪く、またセイコと寄りを戻した……という次第。思えば現在タンスの引き出しの中で時を止めて眠るその腕時計を嵌めていた二年間ほどが、成人後だけに限って言えば、或は一番ヘビーな時期だったかも知れない)。
 その腕時計をプレゼントしてくれたおばさんも既にこの世にはいない。三年前の暮れに満88歳で亡くなったのだ。まぁ大往生……といっても良いと思う。
 だけどその生涯は、幾ばくかの不幸と孤独に彩られていたようには思う。僕が物心ついた頃には既に独り身だったので、ずっと独身を通してきた人なのかと思っていたけれど、のちに聞いた話によると、若い頃に一時期結婚生活を送っていて、男の子もひとり儲けていたのだそうだ。しかしある日ふっと亭主が謎の蒸発をしてしまい、結局そのまま行方知れずとなってしまった。それが、一人息子がまだ物心つくかつかぬかの頃の話で、いきなり母子家庭にされても生活もままならぬ……という次第で、結局その子は蒸発した亭主の実家に引き取られていったのだそうだ。そしてその後、会う事も許されず、母と息子はそのまま音信不通となってしまった。
 そういう次第で、もう会うこともないだろう……と、おばさんも息子の事は誰にも語る事なく、すっかり諦めていたという。しかしそれから歳月は流れ、そんな生き別れの息子が、ある日ひょっこり母の元を訪ねて来たという。それは、四十年以上の歳月を経ての再会だった。
 おばさんも大喜びで、その後、老いた母親と五十歳を間近に控えた息子との失われた親子の交流が始まった。だけど周囲の、今更……という懸念どおり、すぐにその息子が、小金を貯め込んでいる……と専らの噂であった母親に、金目当てで近づいていることが容易に知れるようになってしまった。車に家のローンに消費者金融の借金に……と求められるがままに金を渡していたおばさんであったが、結構貯め込んでいた筈の貯金は瞬くうちに目減りしてゆき、ある日、「独立して商売を始めたい…」と、また金の無心をして来た息子に対して、「もうこれ以上は出せない! あんたもいい年の大人なんだから、自分の裁量で生活して行きなさい!」と説教まじりに拒絶したという。周囲の忠告も耳に入らず、完全に舞い上がっていたおばさんも、ようやく目が醒めたのだろう。
 しかし金の切れ目が縁の切れ目、その後その息子がおばさんを訪ねる事はもう二度となくなってしまった……という話だった。
 それから十年ほどの歳月が流れて、おばさんも体調を崩しては入退院を繰り返すようになった。すっかり老いて、徐々に衰弱してゆくおばさんを不憫に思った、おばさんにとって妹に当たる親戚のおばさんが、その息子に、「一度、会ってあげたらどうだ?」と連絡を入れた事があるそうだ。しかし、「子供の頃にボクを捨てた人がどうなろうが顔を見せる義理はない。迷惑だからもう二度と連絡を入れないでほしい……」と受話器の向こうから吐き捨てるように言われて、一方的に電話を切られてしまったらしい。
 それから程なくしておばさんは亡くなったのだけれど、勿論その息子は葬儀にも顔を出す事はなかった。まぁ、しかしそれで事が済んでいたら、僕もその息子に対して、それ程の悪感情も抱かなかっただろう。物心つくかつかぬかの頃に生き別れた母親に対して、失われた歳月を埋めん……と甘えたくなる気持ちが金の無心を繰り返す行為に繋がった面もあっただろうし、それでも埋め切れない母との気持ちのすれ違いや断絶に、どうにもやりきれずに募る鬱屈もあった事だろう。そういう責めるに責め切れない相手の感情を慮れば、いたずらにその息子を非難する気持ちはあまり湧いて来なかったのだ。
 そもそもおばさんが貯め込んだ金を当てにする権利は、当然その息子にあるのは事実だしね(実は僕も秘かに期待していたけれど……はい)。
 しかし葬儀を終えて一ヶ月ほど経たある日、おばさんの妹にあたるおばさんの自宅にその息子が訪ねて来た話を聞いた時には、流石に僕の胸中にも割りきれぬ気持ちが湧いたものだ。幾ら憎悪の念を発露とした行為だとしても、ちょっと度が過ぎているだろう……と。
 おばさんの妹を訪ねて来たその息子は、「母の遺産は僕が貰う権利があるから出してほしい……」と申し出てきたそうだ。
 遺産も何も、お前が短期間でさんざん食い潰してしまった所為で、亡くなる手前の頃には、もう殆ど貯金なんか残ってはいなかったのだ。身内で簡単な葬儀を済ませて、その葬儀費用を差し引いて残った額は僅か八十万円ほど。当然そのお金は最後まで一番めんどうを見てくれたおばさんの妹が持って行ったのだけれど(まぁ実は僕も十万円だけ遺産分けを頂戴したけれど)、その辺の事情を説明しても、「僅かでも、それはボクに権利があるのだから、全額寄こすのが筋でしょう……」と言い募ってきたらしい。
 仕方なく十万円を封に入れて、「これでもう終わりにしましょう……」と差し出したそうだけれど、不服そうにその封筒を受け取り、「これでは納得がいかないから、次は弁護士を連れて、もう一度来ます!」と宣告して去って行ったという。
 そのおばさんから事の次第を聞かされて相談を受けた僕は、「まぁ放っておけばいいんじゃないの……」と軽く流しておいた。しかし法律上の権利は当然その息子にある筈だし、これって、話が拗れると些か面倒な事になるかもしれないな……と内心ちょっと心配はしていたのだ(いや、貰った十万円を返すのが惜しかったわけじゃないよ。確かに、そういう気持ちが全くなかったかというと嘘になるけれど、「本当はもっと残っていただろう……」と変に疑ってしつこく絡んで来たら、ちょっとした修羅場を体験しなければならなくなるのかな……と、それを最も心配していたのだ)。
 しかしこちらの心配は杞憂に終わった。その後その息子が顔を見せることは二度となかったのだ。
 考えてみたら、そりゃそうだ。単なる嚇しの捨て台詞なら兎も角、実際に弁護士を雇って回収しようとする程の額でもない。幾ら何でも割りが合わない、という計算が働かなければ、よほどの馬鹿というものだろう。
 腕時計「セイコ」の話が大きく逸脱して、いつの間にか三年前に亡くなったおばさんの話しになってしまったけれど、このおばさんの事は、いずれここでも取り上げてみたい……と以前から思っていたので、ちょうど良い機会だったかもしれない。そうして、これも又一つの供養になれば……と願う。
 亡くなった後も不肖の息子から金をたかられたおばさんの、その葬儀の場でも僕の左手首にセイコは嵌められていた。別にそのおばさんと息子の関係のみにあらず、そういう人間の醜さや浅ましさを突きつけられる場面に流れる時間も静かに刻んできたセイコ。勿論その醜さや浅ましさの当事者として、僕が関わって来た場面も幾らでもある。その時もセイコは僕の腕にしっかり嵌められて時を刻んでいた。
 しかしそういう人間の業の裏表に漂うさみしさや哀しみ、そしてそれ故の温もりや優しさ、といった柔らかい情も又、時と共に刻んで来てくれたのだと思う。そして今後は僕の老いてゆく侘しさを刻んでゆくことになるのだろう。
 まぁ何れにせよ、これからもよろしくな。もう、ここまで来たら、明日なき僕の残り余生の時も刻んで、その役目をひっそり終えておくれ、些か雰囲気がくたびれかけて来た、きみの名は……セイコ。