大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 タイトルに掲げたこの歌も実朝の代表歌だけれど、これも又、切ない。圧倒的スケールで無常観が迫って来る。

伊勢の海の磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひわたるかも

 実朝の歌の本歌とされる万葉集に収録された笠女郎(かさのいらつめ)の歌だ。大伴家持に贈った相聞歌(恋歌)で、伊勢の海の磯に轟々と音立てて寄せる波―そんな身も竦むほどの勿体ないお方に、私はずっと恋し続けているのです……という意味らしい。この歌、そのまま大切なあの人の面影に捧げたくなるような歌で、純朴な良い歌だと思う。しかし実朝の歌が至った風格と、そこに込められた哀しみの深さに比べれば、本当に呑気な感傷の歌に堕してしまう。やはり内面に切実な孤独と諦念を抱く本物の詩人の目に映ると、どんな些細な風景も深い哀しみに染められてしまうものなのかも知れない。
 実朝の目にとまった割れて砕けて裂ける波の眺めは、どれだけ哀感に打ち震え、それ故に、どれだけ清くきらめいて美しかった事か、そして散る刹那の波の情景は、実朝の目に、どれだけ儚く思えた事か……
 実朝の心で世の中を見るのは果たして幸福な事なのか不幸な事なのか……恐らく、それは不幸な事なのだろう。笠女郎(かさのいらつめ)のように無邪気な心で恋しい人を思う世俗的な充逸を生きた方が幸せに違いない。しかし、そんな無邪気な心はもう二度と取り戻せないのなら、瑞々しい喜びとは無縁の不幸な場所を生きるが宿命ならば、せめて、実朝の心で世界を眺めてみたい。そして、その心で世界を切り取って歌に託してみたい。……
 今年の夏は実朝の歌に心情移入しながら、漠然とそんな事を考えていたような気がする、そんな、夏の終わりの感慨。