確かに僕も本が読めなくなった。去年なんて一年間でトータル十冊ちょい位しか読めていないのではないだろうか。この冊数、全盛期なら一ヶ月でクリア出来ていた数字だ。今のペースだと、今年は去年より更に下回るだろう。試験勉強に充てる為、四月と五月の二ヶ月間を、意識的に教科書以外の読書を禁じて過ごしていた所為もあるが、それを差し引いても、やはり少ない。十代、二十代、まぁ、ぎりぎり三十代前半までは、「趣味は?」と問われて、「読書」と即答しても恥ずかしくない読書量を誇っていたと思うけれど、今は口が裂けても、「趣味は読書です」なんて言えやしない。
僕の場合、読書量が著しく減った理由は、はっきりしている。~加齢による脳と気力の衰えだ。
十代の頃はまだしも、二十代の頃が今と比べて読書に充てられる時間が多く取れたかというと、そうでもない。寧ろ今より仕事が忙しい時期も多かったし、プライベートでの付き合いも今より確実に多かった。それでも硬軟取り混ぜて、興味の赴くままに様々な本を乱読できたのは、今と比べてまだ脳が柔軟で、集中力もあったからなのだろう。
それに比べて今は駄目だ。ちょっとでも難解な純文学や古典文学を読もうとすると、すぐに意識が他ごとへ向かってしまう。ちっとも文意が頭に入って来ないのだ。エンターテイメント系の小説ですら、集中力の持続がままならない。そもそも若い頃は読書の為の纏まった時間が取れなくても、細切れの時間の中でも貪欲にページを捲れる程、活字に飢えていた。知的好奇心が絶えず疼き続けていたのだ。
「若い頃に精々読書に励んでおいた方がいいぞ。ある程度の年齢に達すると、読みたくても読めなくなるからな」
学生の頃、教師の何人かが、そういう説教を垂れていたのを覚えている。今となってみれば連中の言いたかったことがわかる。凄くわかる。今の僕が若者にあれこれ諭せる立場ではない事を承知で、それでも若い頃の自分に言い聞かせるように言わせて貰えば、脳味噌がまだ柔軟で、色々なものを吸収できるその間に、読書はしておいた方がいいぞ……と。しかも少し背伸びしても、評価の確立された古典文学にチャレンジしてみるのも一考だぞ……と。古典文学は一見取っつきにくそうで、しかし文章のリズムや構成が自分のフィーリングに合う作品は案外容易に読めて、しかも下手なエンターテイメント系よりよほど刺激的で面白かったりする。ドストエフスキーやカフカ、或はセリーヌなどは僕にとって、今も折りに触れて読み返す愛読書になっているし、今になって後悔しているのは、年を取ってからでも読もうと思えば読めるエンターテイメント系の小説は後回しにして、十代や二十代の頃に、もっと古典文学にチャレンジしておくべきだったと思う。
今はすっかり減ってしまった読書量のその殆どを、若い頃に読んで感銘した本の再読に当てている。今の現状ではそれが最も有意義な読書方のように思えるからだ。実際あの頃に刺激を感じた風景を歳月を経て再訪する旅は、今の僕にはそれなりに感慨深い。当時は気づけなかった発見があったり、同じ景色を当時とはまた違う視点で眺めていたり、もっと単純にただ懐かしかったり……酩酊の時の中で、これはこれでそれなりの充実感を味わえる読書体験だ。
しかし闇雲に乱読で過ごせた若かりし日の読書体験を、願わくはもう一度味わってみたい。漠然と思い描いている老後の理想は読書三昧の日々。せめて死ぬまでの残り十年くらいは世間のしがらみや他者の息吹きから遠く離れた場所に引きこもり、本を通して世界の成り立ちを知る生活を過ごしてみたい。だって僕にとって、現実の中で揉まれて、身に染みる形で学び取ってゆく社会の成り立ちよりも、本を通して広がってゆく豊穣なる世界に心たゆたらせている方が遥かに魅力を感じるし、実際、今の僕はもうそういう場所でしか生きたはくないのだと思う。
六畳一間のアパートの一室に一人引きこもりながら若き血潮たぎらせて何処にでも行けたあの頃のように、いつの日にか、また本格的に旅立ちたいな、そう、今度は老いの臭気が籠るベットルームのその中でね。