記憶の不確かさを思う。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 先生って、あの震災の日、東京にいたのか……
 こういう時つくづく記憶の不確かさを思い知らされる。
 いや、先生の匿名ブログの記事で、震災のあの日、自分がどう過ごしていたかがチラッと語られているのだけれど、それによると出張で、あの日は東京に滞在していたらしい。でも僕の記憶の中では震災のあの日、先生の姿を見かけたような気がするのだけれどなぁ……
 とゆうか僕の震災の日の記憶は、地震が発生するほんの少し前に、先生の姿をチラッと見かけた事も込みで刻まれている。確かな記憶と信じていたその記憶が、全くの記憶違いと知れて流石に混乱してしまったのだ。

 本当に記憶というのは当てにならないものだと思う。

 小学生の頃、友達数名と連れ立って大冒険をした事がある。まぁ今振り返れば取るに足らない一日だったのかも知れない。しかし子供にとって、少なくとも小学五年生当時の僕にとって、それはスリルに満ちた大冒険の一日で、いま思い出してもとても懐かしい。そう、僕にとってその一日は、とても大切な思い出の一つだ。
 しかし楽しかった子供の頃の思い出とて、どこまで実際に体験した出来事か知れたものではない。とゆうのは十年ほど前に、この大冒険で行動を共にした当時の悪友と、この日の出来事を語り合う機会があったのだ。彼にとっても、この日の出来事は胸ときめく懐かしい記憶として刷り込まれているらしく、基本的には昔話に華が咲いた。しかし処々に彼と僕との間で記憶に擦れがあるのだ。僕が今でも鮮明に覚えているその日の出来事を彼が全く覚えていなかったり、逆に、彼が懐かしそうに語るエピソードに対して僕が、そんな事あったっけかなぁ……と首を傾げてみたり。
 何よりその日の記憶で彼と大きく擦れを感じたのは山下くんの存在だった。あの日の僕らの大冒険に、彼は、山下くんも参加していた、と断言するのだ。しかし僕の記憶の中で、その大冒険の一日の中に山下くんの姿は微塵もない。もともと無口で大人しく、いるのかいないのかわからないような存在として、時おり僕らと行動を共にするような子だったのだけれど、しかし強烈な体験として記憶に刻まれた冒険の一日で、一緒に行動を共にした仲間の存在が、ごそっと記憶から抜け落ちているのが俄に信じ難かったのだ。映画『スタンド・バイ・ミー』の死体探しの冒険の一日に、実はもう一人行動を共にした仲間がいた事を後に指摘されて驚愕するようなものだ。

 記憶のあやふやさに関しては、子供の頃に慣れ親しんだSFでも重要なテーマの一つで、その辺を追求した作家としてフィリップ・K・ディックは代表格だと思うのだけれど、最近読んだ作品の中では浦沢直樹の『二十世紀少年』が、記憶の不思議をテーマにした作品の中で断突で面白かったと思う。大人になってから振り返る子供の頃の記憶の不確かさ、その不思議……といったテーマがメインになっているこの漫画、読んだ時期もグットタイミングだったと思う。意識的に子供時代の事を回想しないように心がけて生きて来た時期を経て、もうそろそろ、あの頃の日々を振り返ってもいいのかな……と思い始めていた頃に読んだので、主要人物たちの子供時代の回想に、自分の子供の頃の記憶を重ね合わせる事が出来たのも、楽しめた大きな要因だったと思う。
 振り返るほどまだ生きちゃいない……と二十代から三十代半ば頃までは、出来るだけ過去を振り返らないように心がけて生きて来た。しかし現在の僕は、記憶と戯れて過ごす時間が増えている。現在の自分の年齢、そして侘しい現状などを考えるに、出来るだけ現実から心を閉ざして、もう思い出のみに生きるのが一番豊かな時間が過ごせそうな気がするのだ。たいして面白おかしい日々を生きて来られたわけでもないけれど、それでも歳月を経て発酵した思い出と戯れ過ごす時間は甘美だと思う。
 既に僕は今を生きていない。残念ながら、もう今を生きられない。