歌.327 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 今年の四月から自転車で通い始めた新たな職場への通勤途中に教会が建っている。何処にでもある町の教会なのだろうけれど、割と敷地も広く、建物も立派だ。
 僕に信仰心はない筈。それはキリスト教に限った話ではなく、あらゆる既存の宗教に対する信仰心が、一切ない。しかし特に見るともなく教会の屋根の上の十字架を仰ぎながら、自転車を日々ころがしているうちに、いつかしら胸中でその十字架に語りかけている事が多い自分に気づいた。行きは溜め息まじりに、「退屈で、おまけに苦痛が吹き溜まる、あんな場所には行きたくはないけれど、仕方がないので、願わくはつつがなく、何事もなく、無事に今日の一日を終わらせて下さい…」と祈るが如く。帰り道は帰り道で、些かの解放感に包まれながら、「今日も一日を無事に終える事が出来ました…」と安堵の気持ちを告げるが如く。
 いや、僕には決して信仰心などない筈だけれど、一体どうしちゃったのだろう?……
 という己れの心境への途惑いと共に一首。

通勤の途次(とじ)に目に入(い)る十字架に会釈するもよし信仰なけれど。

 別に祈りや感謝の気持ちだけではなく、職場で嫌な事があった時などは、疲れ果てて泣き出しそうな気持ちを十字架に重ねて、己れの心中と向き合っていたり。怒りや憎しみ、妬みや怨み、といったネガティブな感情が渦巻いている時は、そのどす黒い感情をやはり十字架に重ね合わせて、己れの心を鎮めようとしていたり。……別に十字架に限らず、仏像でも、神社のようなパワースポットに根づく信仰の大樹でもよいのだけれど、信仰心へ導く宗教のアイテムには、確かに、人を敬虔な内省へと導く不思議な力を秘めているのは感じる。それは救いや悟りを求めて足を向ける改まった場所である必要はなく、煩雑に繰り返される日常の中で、特に意識する事もなく目に映る町の教会の十字架とて同じ事。寧ろ俗な日常に根差していればいる程、その宗教的アイテムが、日々の内省のきっかけとなってくれるような気がするのだ。
 という次第で4月から始まり、徐々に新たなリズムや秩序が形成されつつある現在の職場での日常が、一体いつまで続くのかは僕とて知れぬが、この職場を中心とした日常が続く限り、行き帰りに目にとまる十字架への語らいは続けてゆこうと思う。つまらぬ現実に磨り減ってゆくばかりの己れの心と、それでも真摯に向き合うその為にもね。
 信仰心など微塵もない僕の宗教的なるものとの戯れなど、その程度で良い。

https://youtu.be/fKLxgRH95Ns

 グレオリア聖歌集は僕もCD一枚持っていて、結構な愛聴盤になっている。これも信仰心が発露となって聴いているわけではなく、純粋に生理が、反響が紡ぐ神秘性を効果的に活かしたこの歌の世界を、切実に求める時があるのだ。以前、どうしようもなく疲れはてた時、ギャラクシー500のアルバムとロバート・ジョンソンのブルースを聴く事が多い……と、ここで書いた事があるけれど、僕にとってグレゴリア聖歌集も、そういうアイテムの中の一枚に加えても良いと思う。心身ともに良好な時の僕は音楽にリズムやビートを求める。そう、リズムやビートが紡ぎ出す心地よさやグルーヴが、僕が音楽に一番求めているものなのだと思う。しかし気持ちがどうしようもなく落ち込み、死に誘われそうな時、普段は心地よく感じるリズムやビートさえもが煩く感じられてしまう。そういう時このグレゴリア聖歌集は必聴のアイテムなのだ。神を讃え神を敬う敬虔な歌声がエコーの中で信仰へ誘うその世界観は、信仰とは無縁の僕にとって、何処までも無へと誘ってくれる魅惑のアイテムへ様変わる。そうして、ある意味これも救済と呼べる安寧の眠りの世界へと導いてくれるのだ。
 僕にとっての救済とは、要するにそういう世界。神とは無縁の場所で夢見心地で虚けさせてくれればそれでいい。