湯川遥菜さんについて、ちょっと思いを馳せてみた。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 後藤健二さんは兎も角、湯川遥菜さんという人は、どこかで死にたがっていた人なんじゃねーのかなって、いろいろな話を知るに及んでそう思う。無邪気で幼稚なパーソナリティに一見アンビバレンツに思われるかも知れないけれど、無邪気で幼稚であるがゆえに、逆に、いつの間にか人生に対する絶望感を拭い去り難く心に巣食わせてしまっている、という事態は往々にしてある。意外に、「え、あんな人が?…」と思うような人懐こい人物が簡単に自殺してしまったりするのは要するにそういう事なのだろう。なまじ無邪気で無防備ゆえに、自分が知らぬ間に抱えてしまった闇を上手く対象化できず、その闇に呑み込まれてしまうのだ。
 少し穿ち過ぎかも知れないけれど、湯川さんもそういうタイプの人で、どこかで死に場所を求めて、敢えて危険な場所へ、危険な場所へ……と流離っていたような気がする。
 で、今回の騒動で、良識ある人達が、「自己責任」という言葉に憤っているけれど、しかし中東の紛争地域に敢えて乗り込んでゆく連中は、それがジャーナリストであれNPO法人の連中であれ、或は目的もなく、なんとなく刺激を求めた根なし草であれ、みんな多かれ少なかれ、「自分の生き死には自分の勝手…」というイデオロギーで現地に乗り込んでいる魂の自由な連中だと思う。それこそ、「自己責任」という言葉を己の自由の象徴として胸に秘めてね。
 国内の貧困世帯や生活保護受給者に対する、「自己責任」という言葉を使ったバッシングに対しては不快感を禁じ得ないし100%異を唱えるが、魂の自由な彼らに対しては、自分たちとは人種が違う相手なのだという認識の元に、それこそ「自己責任」という言葉である程度の距離を置くのも、あながち間違いではない気がする。
 だってリスクの割にはそれほど儲からないらしい戦場カメラマンやジャーナリストを生業にしている連中なんて、それぞれに志はあるのだろうけれど、突き詰めれば、死と隣り合わせのスリルを望んで戦地に赴いているのだろうし、そういう連中に対しては、「自己責任」という言葉でその生き方を認めてやるしか仕方ないじゃないか。
 湯川遥菜さんも変に同情するより、「自己責任」で生きて、そうして、自己の責任の元に亡くなった……と考えてあげる方が筋が通るし、寧ろ本人もそれを望んでいるような気がしてならない。
 しかし日本政府が命の危険に晒されている邦人を救出する為に出来る限りの尽力をするのは、「自己責任」とはまた次元の違う話で、国民に対する当然の義務だと思うので、湯川さんは今回残念だったけれど、なんとか後藤さんだけでも生きて救出が叶うように今後も更なる頑張りを見せて欲しいものだと思う。