私が短歌の魅力に開眼した歌。 | 春田蘭丸のブログ

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 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
     (正岡子規)

 記憶に間違いがなければ、正岡子規のこの代表作が、私が短歌表現に魅力を感じた最初の出会いだったと思う。中学生の頃、国語の授業で取り上げられていたのだ。
 だけど一読いきなり胸を突かれる衝撃を覚えた、というわけではない。寧ろ逆。最初、しらけた気持ちで、「だからどうしたの?…」とこの歌にツッコミを入れたと記憶している。
 だってそうでしょ、歌の内容を散文に置き換えて説明してみれば、「瓶に活けられて部屋に飾られている藤の花。その房が畳みに届きそうで届かない位置に垂れているなぁ…」といったニュアンスか。そりゃ、「だからどうしたの?…」とツッコミ入れたくなるのが心情だよね。
 だけどツッコミ入れたその後で、なぜか妙に引っ掛かるものを覚えたのだ。「だからどうしたの?…」とツッコミを入れる自分の方が寧ろ己のセンスの悪さを露呈している恥ずかしい奴なのではないだろうか…と思わせる妙な引っ掛かかりをね。
 それでその後もう一度読み返してみた。何度も繰り返し読んでみた。そしてようやく知れたのだ、この歌が素朴な感慨を呟いたどうでもよい歌などではなく、普通なら見過ごしてしまうであろう日常の何気ない情景を言葉で発見する事に成功した、写生詠の傑作である事に。
 これこそが短歌の定型マジックだと思う。散文でどれだけ細かく描写しても日常の退屈な情景が上塗りされるばかりで何の発見も見出だせない。詩に託しても、一瞬の情景をこれだけ鮮やかに切り取るのは難しいだろう。それが短歌の定型、つまり五・七・五・七・七の枠に巧みに納まると、かくも鮮やかな日常の発見として、その情景が浮かび上がってくる。
 三十一文字で構成される定型の不可思議さ、魅力、……つまり私が短歌の面白さと可能性に開眼した瞬間だった。
 そういえば日本文学を紹介しているツイッターのアカウントで、以前、「病床の子規は、藤の花が畳に届きそうで届かない様子を、治したいけど治せない自分の病と重ね合わせていた……」という解釈でこの歌を解説するツイートを見かけた事があるけれど、石川啄木の歌ならともかく、正岡子規のこういった一連の写生詠を無理やり内面と結び付けて解釈する必要はないと思う。短歌の定型を利用して、文字通り、藤の花ぶさが畳の上に届きそうで届かない情景を巧みに切り取った歌として純粋に評価した方がこういう写生詠の魅力の本質に迫れる気がするのだ。
 枝分かれを繰り返し、いまでは様々な趣向や表現の可能性が追求されている短歌の世界だが、やはり今でもその一番の醍醐味は定型を使った世界の発見と追求、つまり写実詠にあると思う。