退屈に対する耐久力が落ちてきている。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 一服しようとするそのタイミングで依頼を受けてしまう。一段落ついて、また一服しかけると、今度は使えねー奴が俄かには信じ難いミスを犯して、その尻拭いに追われる。連鎖反応で更にトラブルも発生して、今日は朝から小忙しい日だなぁ…と思いつつ、ようやく正規の食事休憩を迎えたので寛ごうと思っていると、今度は無駄にお喋り好きの同僚が近づいて来て、愚にもつかない雑談が始まってしまう。内心、もう俺の事は放っておいてくれよ…と思う。あんたの退屈なお喋りに相槌打っているより、一人でネット空間を移ろっている方が遥かに楽しいんだよ…と。
 しかしこういう時につくづく思うのは、私も又、他者に対する耐久力が著しく衰えてしまったのだな、という事だ。いや、他者に対する耐久力というより、もっと根本的な問題として、退屈に対する耐久力が著しく衰えてしまったのだと思う。つまり他者とコミュニケーションを取る際に多かれ少なかれ覚えるだろう、退屈。その退屈に対する許容範囲が以前より明らかに狭まっているのだ。昼休憩に近づいて来た同僚も、特に嫌いな相手ではない。古くからの馴染みの相手で、昔から特に面白い話をするわけでもないのに無駄にお喋り好きな性格は相変わらずだが、以前は若干の退屈を感じつつも、さほど苦痛を覚える事もなく相槌を打ち、笑うポイントでは笑ってあげる事も出来ていた。というか、その同僚との他愛もないコミュニケーションをそこそこ楽しむ事も出来ていたと思う。
 それが今は苦痛しか覚えない。相手するのが面倒臭くてイライラしてしまう。
 なぜ他人に対する耐久力、というか、退屈に対する耐久力が著しく減退してしまったのか、理由は察しが付く。
 一人でどこでも楽しめる娯楽が増え過ぎた為だ。
 言うまでもなくスマートフォンはその筆頭だろう。
 確かに娯楽が増えるのはよい事だと思う。昔、さんまのホンマでっかテレビ観ていたら、ある学者さんが、人類が長生き出来るようになった理由の一つとして、娯楽が増えて退屈しなくなった事を上げていたけれど、確かに退屈な状態が及ぼす精神的なストレスは想像以上に大きいのだろうと思う。出来るだけ退屈せずに生きられるなら、それに越した事はない気もする。
 しかし乗り合わせた地下鉄車内の客が全員、スマホの画面に食い入っている光景に出くわすと、流石にちょっとぞっとする時がある。あまりにも退屈を駆逐し過ぎてしまったが故に、今度は退屈に対する免疫力がなくなり、それが原因で人類は滅びの路を辿りそうで、些か怖くもある。と、まるで星新一のショートショートの世界みたいな事を懸念する我が手の内にも四六時中ケータイが握りしめられているのだけどね。