成人の日の感慨。 | 春田蘭丸のブログ

春田蘭丸のブログ

願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 学生の頃に水泳選手としても鳴らした有能な男が、人生も水泳競技に例えて、自分の人生を仮に七十歳までとするなら、水泳の百メートル競技の折り返し地点を三十五歳と考えよう。そして取り敢えず三十五歳に目標を定めて、その折り返し地点までをがむしゃらに泳いでみよう…村上春樹の短編『プールサイド』に登場する男の考え方だ。もう四半世紀以上前の学生の頃に一度読んだきりなので細部は違っているかもしれないが、大筋はこういう内容だったと記憶している。
 この短編で披露されたこの考え方は、その後、自分が三十五歳の誕生日を迎えたその日まで、絶えず心の片隅に引っ掛かっていた。最初の頃は己を鼓舞する為の起爆剤として。年を重ねるに連れて焦躁として。やがて三十歳も過ぎて、徐々に折り返し地点が近づくにつれて諦念混じりに。そして遂に三十五歳の誕生日を実際に迎えたその日には、負け犬めいた感慨と共に、この物語のこの男の考え方を思い出したものだ。
 高校生の頃、この短編を読み終えた直後に、この小説、自分が実際に三十五歳の誕生日を迎えた時にもう一度読み返してみよう…と思ったのを記憶している。三十五歳の自分が、その時どんな境遇の中でどんな感慨を抱きながらこの小説を読み返す事になるのだろう…と遠い未来に思いを馳せながらね。
 しかし遠いと思っていた未来は案外あっさり来てしまい、三十五歳の誕生日を迎えたその日、この『プールサイド』という短編を実際思い出したものの、とてもじゃないが読み返す気分にはなれなかった。なぜって、この短編に登場する男は、明晰な頭脳とタフな心で人生設計を立て、努力も怠らず、実際、順調に仕事でも結果を残し、三十五歳の折り返し地点に到着した時には既に人生を計画通り成功させていて、社会的地位をしっかり確立していたのだ。家庭にも恵まれて、魅力的な浮気相手もいて、…と将に男の願望を絵に描いたようなライフスタイルを三十五歳の段階で手中に収めていた男。そんな人生勝ち組の男と己の三十五歳の現状を比べたら、俺は今まで何をやっていたのだろう…と惨めさがより募るだけに決まっている。私はマゾではないので、わざわざ自分から惨めさを募らせるだけとなる行為を到底する気にはなれなかったのだ。
 しかし、こんな話を今更なぜ始めたのかと言うと、成人式の本日、ふと思ったのだ、そういえば私は二十歳の頃と地続きの、「自分はまだ若い」という感覚を一体いつの間に失ってしまったのだろう…と。確か、『プールサイド』に登場する男は三十五歳の誕生日を迎えた朝、自分の裸を鏡に写して、俺はもう若くない…という感慨を抱き、気づけば涙が頬を伝っていた、というナルシスティックこの上ない感傷に耽っていたように記憶しているが、私が三十五歳の誕生日を迎えたその日、自分がどんな感慨を覚えたかを思い返してみれば、確かに、もう若くない…という感傷に溺れかけたような気もするが、それ以上に、自分が三十五歳を迎えて尚、二十歳の頃と地続きのモラトリアム気分を引きずっている事に途惑う気持ちの方が強かった気がする。三十五歳になっても、こういうモラトリアム気分から完全には抜け出せていないという事は、この先ずっと、もう死ぬまでこういう心情を抱えて生きていかなければならないのだろうなぁ…と老いた事に対する感傷より、いつまでも大人になりきれない自分の資質に寧ろ悍ましいものを覚えたものだ。しかし四十二歳になった今、自分を内省してみれば、そういう青春の名残みたいな心情は既に綺麗さっぱり消え失せている事を思い知る。
 この年になってつくづく思うのは、要するに、三十歳になったからモラトリアム気分から抜け出さなくちゃ…とか、三十五歳になったから、もう自分は若くないと己に言い聞かせなくちゃ…とか、そんな事を理性でとやかく考えても仕方がないという事だ。気分とか生理とか、そういう理屈では割り切れぬものは時が来れば自然に薄れ衰えゆくものだし、自分の中で何かが完全に失われてしまった事に気づくのは、自分の中で何かが完全に失われた後、しばらく時を経ての事なのだろう。
 2009年5月2日、私にとって青春の象徴的な存在であった忌野清志郎さんの訃報を聞いた時、自分の中に特に打ち震える感情がなにも湧かない事に気づいた時、自分の中に青春の名残みたいなものすら既に微塵も残っていない事を心底から思い知らされた。その時ようやく、私は自分の中で決定的に何かが終わっている事を認識したのだ。
 そう、いつまでも引きずっていたモラトリアム期間は、自分でも気づかぬ内に知らぬ間に終焉を迎えていた。三十七歳だった。