昨日交差点を車で走っていた時こんな標語の看板を見つけました。

 

「あらわそう ことばにして たいどにだして おもいやり」

 

子どもが作った標語らしいのですが、表現することへのシンクロニシティを感じたのでブログに書いてみます。

 

ちなみに先日ブログに姉のことを書いたのですが↓

 

人は生きたように死んでいく | 今日のお知らせ (ameblo.jp)

 

 

もう一つ、姉の死から学んだことがあります。

 

「愛していることを、言葉で表すこと、態度で表すこと」の大切さ。

 

私は3姉妹で、一つ上の姉、五つ下の妹がいます。

 

小さいころから、ほんとに物心がつくまえの赤ちゃんの頃からだそうですが、わたしの親は暴力をふるう人でした。

 

特に父は「しつけ」という名目で、自分の機嫌が悪いと酔っ払っては暴力をふるっていました。

 

母は自分も父に殴られた経験が2度あり、自分が殴られたくないばかりに私と姉を父の思うままにさせておきましたし、時には私たちが少しでも反抗的な態度をとると父に言いつけて「叱って」(暴力をふるわせて)いました。

 

それが私が小学5年生(姉が小学6年生)になるまで続きました。

 

(父はその時、生死をわかつような大きな病気をしており、実際手術中に2度心臓が止まりました。

そのあとは、暴言はあれど暴力は収まりました。)

 

 

このことから私が何を言いたいかというと、

 

父は決して私たちに対して

「愛情がないわけではない」

ということです。

 

「愛情はあった、けれど言葉にも出さず、

愛情がある振る舞いをしてこなかった」

 

人生のほとんどの時間を、愛する人に対してまるで愛情なんてなかったように私たちに振舞ってきてしまっていたのです。

 

そのためか姉は「自分が愛されている」ということを信じられず、自己肯定感が常に低い状態でした。

なにかあると「どうせわたしなんて」という言葉をよく口にしました。

 

姉は亡くなるその時まで父の愛情を求め続けました。

 

5歳の子供のように、もうろうとする意識の中必死で「おとうさん、おとうさん」と父を求めて呼び続けました。

 

そしてついに、父から欲しかった言葉を初めてかけてもらったのです。

 

「愛しているよ」と。

 

生きているうちに、「今」目の前にいるその人を大事だと思うなら、「今」愛情を持って話し、愛情がある振る舞いをしていくこと。

 

通り過ぎる標語の看板をみて、人生が通り過ぎる前に今すぐこのことを伝えたいと思いました。