1872年11月7日、1隻の小さな帆船がイタリアのジェノヴァに1700樽の生アルコールを運ぶためにニューヨークを出発しました。乗船していたのは船長のベンジャミン・ブリグス、妻のサラ、2歳の娘のソフィア、そして7人の乗組員でした。船は全長33mで、およそ6か月分の食料と水を積んでいました。船の名前はメアリーセレスト号でした。
5週間後、メアリーセレスト号は見捨てられ、外洋を漂流しているところを発見されました。船長とその家族、乗組員の姿はどこにも見つかりませんでした。メアリーセレスト号は幽霊船だったのです。
あちこちに軽い損傷の後がありました。そして船倉には水がありました。しかし積荷は無事で、船は完全に航行可能でした。船長とその家族、そして乗組員があまりにも急に姿を消したという形跡も見られたのです。船乗りたちは、防水コートやパイプをとる時間さえありませんでした。誰かが1さじのせき止めの薬を飲み、コルクの栓をビンに戻す時間もなかったのです。ブリグス船長、サラ、ソフィア、そして船の乗組員たちに何が起きたのでしょうか。
一説には、船は巨大なイカ、つまり海の怪物によって攻撃されたのだといわれています。しかし、船のクロノメーター、六分儀、そして書類もまた消えていたのです。海の怪物はこれらを欲しがったのでしょうか。
別の説では、争いがあったのだといわれています。赤い染みの付いた剣が発見されたのです。おそらく、乗組員が反乱を起こし、船長とその家族を殺し、船の小さな救命ボートに乗って逃げたのでしょう。そしてそのとき、航行するために一緒にクロノメーターと六分儀を持っていったのでしょう。しかし、赤いしみは血ではなくクエン酸鉄だったのです。剣はレモンで磨かれていました。さらに重要なことに、ベンジャミン・ブリグスは公平で尊敬される船長でした。しかも、乗組員たちは、正直で経験を積んだ船乗りでした。短い大西洋の横断の最中に、なぜ反乱が起きたのでしょうか。そして、たとえ乗組員が船を乗っ取ったとしても、なぜ彼らはその船を捨て小さい救命ボートに乗り換えたのでしょうか。メアリーセレスト号の謎は、1884年に有名になりました。なぜなら、シャーロックホームズ物語の作者、アーサー・コナンドイル氏が「メアリーセレスト号」という幽霊船について物語を書いたからです。この謎に関する何冊かのベストセラーがイギリスとアメリカにすぐに現れました。こんにちでさえ、謎に包まれたメアリーセレスト号に関する多くの本とウェブサイトが存在するのです。
メアリーセレスト号に何が起きたのか
運命の航海の数日前、ブリグス船長は母親に手紙を書きました。彼は航海の仲間のことで喜んでいました。「とてもよい航海士と賄い長がいて、愉快な航海になると思います。」そして彼はまた新しい船にも満足していました。「私たちの船はよく手入れされていて、すばらしい航海になると思います。」彼は娘のソフィアについても書きました。「彼女は本当に賢そうで、やってきたときにひいていたひどい風邪からも治り、ハヤシ料理とバターつきパンにかなりの食欲を示しています。航海は大いに彼女のためになると思います。」
不運にも、11月23日ごろ、南西から強風が吹き、天気は荒れ模様になりました。ブリグス船長は、風を避けるためアゾレス諸島のサンタマリア島の北を航行することに決定しました。25日の午前5時、メアリーセレスト号は島の西方の黒い点の近くにいました。午前8時、船は島の北東部の黒の十字マークの近くにいました。午前8時直後、何か恐ろしいことが起きたに違いありません。そして、乗船しているすべての人は、全長7mの救命ボートに急いで乗り移らなければならなかったのです。2つの主要な説があるのです。
1.アルコール説 メアリーセレスト号のアルコールの積荷は危険でした。時間が経つうちに、樽から出た気体が船倉に充満し、爆発する可能性があったのです。ブリグス船長は以前、このような積荷を運んだことがありませんでした。そして彼の強い宗教上の信仰のせいで、彼はアルコールを恐れ、嫌っていたのです。アルコール説によれば、1700樽のアルコールが今にも爆発しそうだと彼に思わせるような何かが起きたに違いないのです。
後に、メアリーセレスト号を調べたところ、9つの樽が空っぽであることが分かりました。また、船倉のハッチの2つがもぎ取られるか、あるいは吹き飛ばされるかしていました。おそらく、小さな爆発が起きたのでしょう。そして、ブリグス船長は救命ボートのほうが皆安全だと判断したのでしょう。そして、突然の嵐によって救命艇とメアリーセレスト号を繋いでいる太いロープが切断されたのかもしれません。ちぎれたロープが舷側にたれているのが発見されました。小さな救命艇は、母船から切り離されると激しい大西洋の嵐によってすぐにも転覆してしまうでしょう。
2.海の地震説 サンタマリア島周辺の海域では、海底で何度も地震が起きているのです。これらの地震の衝撃が、金属製の船にさえ深刻な損傷を与える場合があるのです。そして、メアリーセレスト号の真下の上下動の揺れによって大きな料理用レンジが動き、空で発見された9個の樽が壊れ、ハッチが開いたのかもしれません。レンジの煙、アルコールの強烈なにおい、そして繰り返される地震の衝撃が、積荷が爆発しているとブリグス船長に思わせたことも充分に考えられたでしょう。
メアリーセレスト号は、無線以前の時代の唯一の幽霊船ではありませんでした。1849年のハーメイニア号、そして1855年のマラソン号も無人の状態で海上を漂流しているところを発見されました。しかしこんにちでは、それらは忘れ去られています。しかし、アーサー・コナンドイルの物語のおかげで、人々はメアリーセレスト号の運命について今でも思い出しあれこれ考えるのです。
自分の部屋で、トマス・ジェファーソンは窓のそばに腰掛け、自分がすることに同意したすごい仕事について考え始めていました。「私は、そのような重要な文書を書くのにふさわしい男なのだろうか。」と彼は思いました。
こんにちでは、われわれはみんなトマス・ジェファーソンについて知っています。彼はアメリカの最初の偉大な思想家の1人でした。作家、発明家、政治家そして建築家として、彼は身の回りで形成されつつあった科学や政府に関する新しい考え方を探求したのです。
彼がアメリカの大統領になったことは、皆知っています。そして現在、ほとんどの人が彼が独立宣言を書いたことを知っています。しかし、彼が人生で最大の難問を目の前にして自分の部屋で1人で座っていたとき、この若者がその日の午後どのように感じていたか、私たちはわざわざ考えようとすることは滅多にないのです。
議会は、トマス・ジェファーソンに独立宣言を書くために2週間与えました。彼らは、今後アメリカ人は決してイギリスの法律に従わないということを彼に明言してほしかったのです。この文書で、植民地は自らの独立を宣言することになっていたのです。アメリカ人は自らを統治することになるのです。
これだけでも大変な仕事でした。しかしトマスは、自分に対してもっと難しい目標を課したのです。彼は、アメリカが自由になると単に宣言するだけでは、充分ではないと感じていました。彼は、新しい国を導く新たな考え、つまりアメリカ人だけでなくすべての人が自由の権利を持っているという考えを説明したかったのです。
トマスは、ウィリアムズバーグで学生だったときに、個人の自由の概念をはじめて学んだのです。彼は、万人が持っているいくつかの権利があるということを学んだのです。生きる権利、自分で選択できる権利、他人を傷つけない限り望むことを自由にする権利などです。現在私たちはこのような考え方を当然と考えています。しかしそれらは、1770年代かなり新しいものだったのです。すべての人がそれらを良いと思ったわけではありませんでした。あるいは、それらについて大して考えることさえしなかったのです。しかしトマス・ジェファーソンは考えたのです。先生たちは、トマスが最も思慮深い学生だと言ったのです。
アメリカを治めるイギリスの支配者が、入植者たちに個人の基本的な権利を与えていないということをトマスは知っていました。アメリカ人たちは、自らを統治すること、自分たちで税金を課すこと、あるいは自分たちを守ることが許されていませんでした。毎年、このような考えをめぐるイギリスと植民地の論争がますます深刻になりました。
アメリカ人は、自分たちの法律をつくりたいと思いました。あるいは、少なくとも自分たちを支配するイギリス政府で何らかの発言権を持ちたいと思ったのです。国王のジョージ3世は、その可能性さえ考えようとしませんでした。入植者たちは、自由のために戦わなければならないでしょう。今や、アメリカが独立を目指して最初の、そしてとても大胆な1歩を踏み出すのは、バージニア植民地のトマス・ジェファーソンの肩にかかっていたのです。
トマスが日に照らされたフィラデルフィアの街を座って窓から眺めていたとき、彼の考えはまとまりませんでした。彼は宣言文を書くことに集中しようとしました。しかし、家族に対する心配事が彼に気をそらしたのです。彼は、遥か遠いバージニアにいる愛しい妻のマーサのことをあれこれ考えました。彼女はとても具合が悪く、家族からの手紙が彼のもとに届くのに、1週間かあるいはそれ以上かかったのです。彼女は回復したのだろうか。彼女は悪くなったのだろうか。マーサについてあれこれ考えると、彼はほとんど気が狂いそうになりました。トマスはまた母のことも考えていました。彼女は3ヶ月ほど前に亡くなったばかりでした。彼は、母が亡くなったことで悲しみで胸がいっぱいでした。
トマスはペンを下に置き、椅子に深くもたれました。外では通りは人でいっぱいでした。男たちは肩で材木を運んでいます。女性は日光から顔を守るためにフリルの付いた傘を差して散歩しています。汚い顔をした子供たちが、市場を駆け回っています。
トマス・ジェファーソンは、緑豊かなバージニアの田舎で過ごした少年時代を思い出しました。少年の頃、彼が荒野のまさにはずれで暮らしていたとき、人生はどんなに違っていたことでしょうか。とんでもない少年時代の夢においても、成り行き上自分が重大な時を迎えるとは彼はかつて想像したことがあったでしょうか。
翌朝トマスは仕事の用意をしました。彼は特別につくった書き物机を組み立てました。彼はいつもこれを持ち歩いていました。それは閉まっているときは本のように見えました。しかし、天板は開いて持ち上がり、机の表になったのです。中には、ペンやインク、砂の入った引き出しがありました。ペンはガチョウの羽でできていました。人々はペンの先をインクに浸して書いたのです。インクは乾くのに時間がかかったので、砂が余分のインクを吸うように、書き終わったときに紙の上に砂をかけなければならなかったのです。
トマスは立ったまま書くのが好きでした。そのほうがよく考えられる、と彼は言ったのです。そこで彼は、小さな机に向かって立ち、ペンやインクを整え、すぐそばに砂の入った小さな箱を置いたのです。それから彼は1枚の紙を取り出し、机の上に平らに伸ばしました。
彼は今朝は気分が良かったのです。彼は自分が書きたいことを知っていました。そして、自分にはそれができると知っていました。彼は、かつて父親が荒野を探検しているときの冒険について話してくれた物語を思い出しました。彼は今まさに、冒険に乗り出そうとしていたのです。実際、国中がそうだったのです。
彼はペンをインクに浸し書き始めました。
しばらくして、彼は書くのをやめてこれまで書いたものを読み返しました。そして、箱から砂を取り出し、紙の上にまいたのです。彼はしばらくの間そのままにしておいて、それから砂を吹き飛ばしました。
ここまではうまくいっている。彼は満足していました。宣言文は力強いものでなければならない。しかしまた、感動的で美しいものでなければならない。表現は人々を勇気付けるものでなければならない。トマスは、宣言文が、本にファイルされ、忘れられてしまう単なる公文書以上のものであってほしいと願っていました。彼は、人々が長い間忘れないようなものを書きたかったのです。しかも、アメリカ人のためだけでなく、万人のために書かれなければならないのです。
そこで彼は、アメリカで起きていることはどこでも起こりうるということを、まず初めに書いたのです。それから、彼はアメリカの状況に移り、人々の権利、つまり万人が持つ資格のある基本的な人権が守られていないのでアメリカは独立しなければならない、と述べたのです。
トマス・ジェファーソンは、万人が平等であり、誰でも他の人よりもよく扱われるべきではない、ということを他の何よりも強く信じていたのです。そして、奪い取ることのできないいくつかの権利があったのです。当然のことながら、誰でも生きる権利があったのです。しかし、それが全てではありませんでした。人にはまた、自由の権利があったのです。つまり、自分の行動が第三者の自由を損なわない限り、自由に自分が望むことを考え、行う権利なのです。最後に、人々には幸福になる権利と、自分を幸福にすることを行う権利があったのです。
このような基本的な人権を守るにはたった1つの手段しかない、とジェファーソンは考えました。政府は国民から権力を得るべきであって、その逆であってはならないのです。そこで彼は、アメリカ人はイギリスから自由になるだけでなく、国民が自ら責任を負うようにするために政府を樹立するつもりである、ということを力強く宣言したのです。
ジェファーソンの独立宣言書は今や、政府についての新しい概念としてだけでなく、人間個人についての新しい概念として世界中で受け入れられているのです。
こんにちでは、われわれはみんなトマス・ジェファーソンについて知っています。彼はアメリカの最初の偉大な思想家の1人でした。作家、発明家、政治家そして建築家として、彼は身の回りで形成されつつあった科学や政府に関する新しい考え方を探求したのです。
彼がアメリカの大統領になったことは、皆知っています。そして現在、ほとんどの人が彼が独立宣言を書いたことを知っています。しかし、彼が人生で最大の難問を目の前にして自分の部屋で1人で座っていたとき、この若者がその日の午後どのように感じていたか、私たちはわざわざ考えようとすることは滅多にないのです。
議会は、トマス・ジェファーソンに独立宣言を書くために2週間与えました。彼らは、今後アメリカ人は決してイギリスの法律に従わないということを彼に明言してほしかったのです。この文書で、植民地は自らの独立を宣言することになっていたのです。アメリカ人は自らを統治することになるのです。
これだけでも大変な仕事でした。しかしトマスは、自分に対してもっと難しい目標を課したのです。彼は、アメリカが自由になると単に宣言するだけでは、充分ではないと感じていました。彼は、新しい国を導く新たな考え、つまりアメリカ人だけでなくすべての人が自由の権利を持っているという考えを説明したかったのです。
トマスは、ウィリアムズバーグで学生だったときに、個人の自由の概念をはじめて学んだのです。彼は、万人が持っているいくつかの権利があるということを学んだのです。生きる権利、自分で選択できる権利、他人を傷つけない限り望むことを自由にする権利などです。現在私たちはこのような考え方を当然と考えています。しかしそれらは、1770年代かなり新しいものだったのです。すべての人がそれらを良いと思ったわけではありませんでした。あるいは、それらについて大して考えることさえしなかったのです。しかしトマス・ジェファーソンは考えたのです。先生たちは、トマスが最も思慮深い学生だと言ったのです。
アメリカを治めるイギリスの支配者が、入植者たちに個人の基本的な権利を与えていないということをトマスは知っていました。アメリカ人たちは、自らを統治すること、自分たちで税金を課すこと、あるいは自分たちを守ることが許されていませんでした。毎年、このような考えをめぐるイギリスと植民地の論争がますます深刻になりました。
アメリカ人は、自分たちの法律をつくりたいと思いました。あるいは、少なくとも自分たちを支配するイギリス政府で何らかの発言権を持ちたいと思ったのです。国王のジョージ3世は、その可能性さえ考えようとしませんでした。入植者たちは、自由のために戦わなければならないでしょう。今や、アメリカが独立を目指して最初の、そしてとても大胆な1歩を踏み出すのは、バージニア植民地のトマス・ジェファーソンの肩にかかっていたのです。
トマスが日に照らされたフィラデルフィアの街を座って窓から眺めていたとき、彼の考えはまとまりませんでした。彼は宣言文を書くことに集中しようとしました。しかし、家族に対する心配事が彼に気をそらしたのです。彼は、遥か遠いバージニアにいる愛しい妻のマーサのことをあれこれ考えました。彼女はとても具合が悪く、家族からの手紙が彼のもとに届くのに、1週間かあるいはそれ以上かかったのです。彼女は回復したのだろうか。彼女は悪くなったのだろうか。マーサについてあれこれ考えると、彼はほとんど気が狂いそうになりました。トマスはまた母のことも考えていました。彼女は3ヶ月ほど前に亡くなったばかりでした。彼は、母が亡くなったことで悲しみで胸がいっぱいでした。
トマスはペンを下に置き、椅子に深くもたれました。外では通りは人でいっぱいでした。男たちは肩で材木を運んでいます。女性は日光から顔を守るためにフリルの付いた傘を差して散歩しています。汚い顔をした子供たちが、市場を駆け回っています。
トマス・ジェファーソンは、緑豊かなバージニアの田舎で過ごした少年時代を思い出しました。少年の頃、彼が荒野のまさにはずれで暮らしていたとき、人生はどんなに違っていたことでしょうか。とんでもない少年時代の夢においても、成り行き上自分が重大な時を迎えるとは彼はかつて想像したことがあったでしょうか。
翌朝トマスは仕事の用意をしました。彼は特別につくった書き物机を組み立てました。彼はいつもこれを持ち歩いていました。それは閉まっているときは本のように見えました。しかし、天板は開いて持ち上がり、机の表になったのです。中には、ペンやインク、砂の入った引き出しがありました。ペンはガチョウの羽でできていました。人々はペンの先をインクに浸して書いたのです。インクは乾くのに時間がかかったので、砂が余分のインクを吸うように、書き終わったときに紙の上に砂をかけなければならなかったのです。
トマスは立ったまま書くのが好きでした。そのほうがよく考えられる、と彼は言ったのです。そこで彼は、小さな机に向かって立ち、ペンやインクを整え、すぐそばに砂の入った小さな箱を置いたのです。それから彼は1枚の紙を取り出し、机の上に平らに伸ばしました。
彼は今朝は気分が良かったのです。彼は自分が書きたいことを知っていました。そして、自分にはそれができると知っていました。彼は、かつて父親が荒野を探検しているときの冒険について話してくれた物語を思い出しました。彼は今まさに、冒険に乗り出そうとしていたのです。実際、国中がそうだったのです。
彼はペンをインクに浸し書き始めました。
しばらくして、彼は書くのをやめてこれまで書いたものを読み返しました。そして、箱から砂を取り出し、紙の上にまいたのです。彼はしばらくの間そのままにしておいて、それから砂を吹き飛ばしました。
ここまではうまくいっている。彼は満足していました。宣言文は力強いものでなければならない。しかしまた、感動的で美しいものでなければならない。表現は人々を勇気付けるものでなければならない。トマスは、宣言文が、本にファイルされ、忘れられてしまう単なる公文書以上のものであってほしいと願っていました。彼は、人々が長い間忘れないようなものを書きたかったのです。しかも、アメリカ人のためだけでなく、万人のために書かれなければならないのです。
そこで彼は、アメリカで起きていることはどこでも起こりうるということを、まず初めに書いたのです。それから、彼はアメリカの状況に移り、人々の権利、つまり万人が持つ資格のある基本的な人権が守られていないのでアメリカは独立しなければならない、と述べたのです。
トマス・ジェファーソンは、万人が平等であり、誰でも他の人よりもよく扱われるべきではない、ということを他の何よりも強く信じていたのです。そして、奪い取ることのできないいくつかの権利があったのです。当然のことながら、誰でも生きる権利があったのです。しかし、それが全てではありませんでした。人にはまた、自由の権利があったのです。つまり、自分の行動が第三者の自由を損なわない限り、自由に自分が望むことを考え、行う権利なのです。最後に、人々には幸福になる権利と、自分を幸福にすることを行う権利があったのです。
このような基本的な人権を守るにはたった1つの手段しかない、とジェファーソンは考えました。政府は国民から権力を得るべきであって、その逆であってはならないのです。そこで彼は、アメリカ人はイギリスから自由になるだけでなく、国民が自ら責任を負うようにするために政府を樹立するつもりである、ということを力強く宣言したのです。
ジェファーソンの独立宣言書は今や、政府についての新しい概念としてだけでなく、人間個人についての新しい概念として世界中で受け入れられているのです。
マーティン・ルーサー・キングはジョージア州の首都であるアトランタで生まれました。その当時、ジョージア州は黒人と白人を別々にしようとしていました。彼らの標語は「別々しかし平等」。これは、黒人の子供達が違う学校に行くことを意味しました。彼らの両親は街の違う場所に住み、違うレストランで食べ、違う映画館で古い映画を見ました。マーティン・ルーサー・キングは成長してその全てを変えました。
彼が高校生だった時、マーティン・ルーサー・キングは学校へ行くのに毎日バスに乗らなければなりませんでした。しかし、その当時、黒人はバスの前の方の席に座ることを許されていませんでした。彼らは後ろの席に座らなければなりませんでした。後に彼は回想しました。「私は自分の体と共にあのバスの後ろへ行かなければならなかった。しかし、私がバスに乗る度にいつも、前の方の席へ心を残していった。」
14歳の時に、彼は別の市のスピーチコンテストで優勝しました。彼が家に帰る途中、彼と彼の先生はバスの席を無理矢理白人に譲らされました。彼らは140km以上も通路に立っていなければなりませんでした。彼は言いました。「あの夜は決して私の記憶から去ることはないだろう。私はその時ほど怒ったことはない。」
キングが優秀な生徒で、生まれながらのリーダーであることは明らかでした。彼は医者か弁護士になることを考えましたが、最後に彼は父のように牧師になることを決心しました。1955年、キングが26歳の時に、彼はアラバマ州の首都であるモントゴメリーにあるパブティスト教会の牧師になりました。その年の12月、ある黒人女性ローザ・パークス夫人が、白人にバスの席を譲るのを拒否したという理由で警察に逮捕されました。その後に続く抗議運動のリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは世界的に有名になりました。
パークス夫人は12月1日に逮捕されました。その次の日、地元の黒人社会の指導者が会合を開いて、12月5日、つまりパークス夫人の裁判の日にバスの不乗車運動をすることを決めました。モントゴメリー市内のバスの利用者のうち、約70%は黒人が占めていたのです。もし、黒人達が彼らの指導者のアドバイス、「仕事、街、学校、その他どこへ行くのにもバスには乗るな。タクシーに乗るか、車に相乗りをするか、もしくは歩け。」に従えば、これはバス会社にとっては深刻な打撃となるでしょう。パークス夫人は、市の人種隔離法に違反したとして有罪になり、10ドルの罰金を科せられました。しかし、ボイコットは大成功でした。普通なら黒人でいっぱいになるバスが、12月5日には空っぽだったのです。
同じ日の夕方、大規模な集会がありました。何千人もの黒人達が正義と平等のために戦おうと堅く決意して会議にやってきました。そこで新たな組織「モントゴメリー改善協会」が作られ、マーティン・ルーサー・キングはその代表に選ばれた。そしてバス会社が黒人と白人を平等に扱うまで、バスの利用をボイコットすることに全員が同意しました。
それから一週間以内に、MIAは約300台の車を集めて乗り合いグループを組織し、学校や仕事場への送り迎えをしました。たくさんの人々が歩き、そして歩くことそのものが抗議の表明になりました。ある時、乗り合いグループの運転手が明らかにつらそうに歩いている老婆の脇に止まりました。
「乗りなよ。婆さん。」運転手は言いました。「歩く必要なんかないよ。」
彼女は運転手に対して先に行けと手を振りました。「私は自分のために歩いているんじゃないよ。」と彼女は説明しました。「私は自分の子供や孫のために歩いているんだ。」
マーティン・ルーサー・キングは、抵抗運動は非暴力でなければならない、と何度も言いました。彼は聖職者として、キリスト教徒は自分達の敵を愛さなければならないというイエスの教えを信仰していたのです。キング達は、インドにおけるイギリス支配に対して行われていた、マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響されました。人々が彼についての嘘の噂を流したり、もしくはキングは悪いリーダーだと自分の友達を説得しようとしたりした時は、キングは当然ながら腹を立てました。しかし彼は、自分自身に言いました。「敵の怒りに耐えなければならない、それでいて怒りを返してはいけない。どんなに敵が感情的になっても、お前は冷静でなければならない。」
1956年1月の終わり頃、警察は交通違反で乗り合いグループの運転手達を逮捕し始めました。キング自身も、制限速度25マイルのところを時速30マイルで走ったとして逮捕されました。彼は一晩監獄に入れられましたが、そこでも人種隔離がありました。キングは白人の囚人とではなく、黒人の囚人と一緒に監禁されました。
同時に、キングは30か40の脅迫電話や手紙を毎日受けていました。彼を殺害する計画の噂もありました。そして1月30日に誰かが彼の家に爆弾を投げました。キング自身は会議で外出していましたが、奥さんと幼い娘はそこにいました。大勢の怒ったMIAの支持者たちが家の周りに集まりましたが、奥さんと娘が無事だと分かった後、キングは彼らに言いました。
「私達は法と秩序を信じている。武器は手に取るな。剣に生きるものは剣に滅ぶ。私達は敵を愛したいと思う。」
2月になると、警察は100人を超えるMIAの支持者達を、ボイコットを禁止する古い州法に違反したとして訴えました。彼らのリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは3月22日に裁判にかけられ、そして有罪にされました。この事件は最高裁判所に上告され、1956年の11月、モントゴメリーでのバスのボイコットが続いている中で、バスの人種隔離はアメリカの憲法に違反しているという判断が下されました。マーティン・ルーサー・キングは、これは「白人に対する勝利」ではなく、「正義と民主主義のための勝利」だと主張しました。彼は黒人たちにまたバスを利用して「敵が味方に変わるくらい愛情深くなるよう」促しました。
自伝の中で、キング牧師はモントゴメリーのボイコット運動を「アメリカの黒人にとっての心理的な転換点」と呼んでいます。そのボイコット運動は、よく組織された非暴力的な方法で力を合わせることによって、黒人たちは成功することができるのだということを明らかにしました。この事件は、彼らの主張は正しいというメッセージを国全体に送ったのです。
彼が高校生だった時、マーティン・ルーサー・キングは学校へ行くのに毎日バスに乗らなければなりませんでした。しかし、その当時、黒人はバスの前の方の席に座ることを許されていませんでした。彼らは後ろの席に座らなければなりませんでした。後に彼は回想しました。「私は自分の体と共にあのバスの後ろへ行かなければならなかった。しかし、私がバスに乗る度にいつも、前の方の席へ心を残していった。」
14歳の時に、彼は別の市のスピーチコンテストで優勝しました。彼が家に帰る途中、彼と彼の先生はバスの席を無理矢理白人に譲らされました。彼らは140km以上も通路に立っていなければなりませんでした。彼は言いました。「あの夜は決して私の記憶から去ることはないだろう。私はその時ほど怒ったことはない。」
キングが優秀な生徒で、生まれながらのリーダーであることは明らかでした。彼は医者か弁護士になることを考えましたが、最後に彼は父のように牧師になることを決心しました。1955年、キングが26歳の時に、彼はアラバマ州の首都であるモントゴメリーにあるパブティスト教会の牧師になりました。その年の12月、ある黒人女性ローザ・パークス夫人が、白人にバスの席を譲るのを拒否したという理由で警察に逮捕されました。その後に続く抗議運動のリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは世界的に有名になりました。
パークス夫人は12月1日に逮捕されました。その次の日、地元の黒人社会の指導者が会合を開いて、12月5日、つまりパークス夫人の裁判の日にバスの不乗車運動をすることを決めました。モントゴメリー市内のバスの利用者のうち、約70%は黒人が占めていたのです。もし、黒人達が彼らの指導者のアドバイス、「仕事、街、学校、その他どこへ行くのにもバスには乗るな。タクシーに乗るか、車に相乗りをするか、もしくは歩け。」に従えば、これはバス会社にとっては深刻な打撃となるでしょう。パークス夫人は、市の人種隔離法に違反したとして有罪になり、10ドルの罰金を科せられました。しかし、ボイコットは大成功でした。普通なら黒人でいっぱいになるバスが、12月5日には空っぽだったのです。
同じ日の夕方、大規模な集会がありました。何千人もの黒人達が正義と平等のために戦おうと堅く決意して会議にやってきました。そこで新たな組織「モントゴメリー改善協会」が作られ、マーティン・ルーサー・キングはその代表に選ばれた。そしてバス会社が黒人と白人を平等に扱うまで、バスの利用をボイコットすることに全員が同意しました。
それから一週間以内に、MIAは約300台の車を集めて乗り合いグループを組織し、学校や仕事場への送り迎えをしました。たくさんの人々が歩き、そして歩くことそのものが抗議の表明になりました。ある時、乗り合いグループの運転手が明らかにつらそうに歩いている老婆の脇に止まりました。
「乗りなよ。婆さん。」運転手は言いました。「歩く必要なんかないよ。」
彼女は運転手に対して先に行けと手を振りました。「私は自分のために歩いているんじゃないよ。」と彼女は説明しました。「私は自分の子供や孫のために歩いているんだ。」
マーティン・ルーサー・キングは、抵抗運動は非暴力でなければならない、と何度も言いました。彼は聖職者として、キリスト教徒は自分達の敵を愛さなければならないというイエスの教えを信仰していたのです。キング達は、インドにおけるイギリス支配に対して行われていた、マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響されました。人々が彼についての嘘の噂を流したり、もしくはキングは悪いリーダーだと自分の友達を説得しようとしたりした時は、キングは当然ながら腹を立てました。しかし彼は、自分自身に言いました。「敵の怒りに耐えなければならない、それでいて怒りを返してはいけない。どんなに敵が感情的になっても、お前は冷静でなければならない。」
1956年1月の終わり頃、警察は交通違反で乗り合いグループの運転手達を逮捕し始めました。キング自身も、制限速度25マイルのところを時速30マイルで走ったとして逮捕されました。彼は一晩監獄に入れられましたが、そこでも人種隔離がありました。キングは白人の囚人とではなく、黒人の囚人と一緒に監禁されました。
同時に、キングは30か40の脅迫電話や手紙を毎日受けていました。彼を殺害する計画の噂もありました。そして1月30日に誰かが彼の家に爆弾を投げました。キング自身は会議で外出していましたが、奥さんと幼い娘はそこにいました。大勢の怒ったMIAの支持者たちが家の周りに集まりましたが、奥さんと娘が無事だと分かった後、キングは彼らに言いました。
「私達は法と秩序を信じている。武器は手に取るな。剣に生きるものは剣に滅ぶ。私達は敵を愛したいと思う。」
2月になると、警察は100人を超えるMIAの支持者達を、ボイコットを禁止する古い州法に違反したとして訴えました。彼らのリーダーとしてマーティン・ルーサー・キングは3月22日に裁判にかけられ、そして有罪にされました。この事件は最高裁判所に上告され、1956年の11月、モントゴメリーでのバスのボイコットが続いている中で、バスの人種隔離はアメリカの憲法に違反しているという判断が下されました。マーティン・ルーサー・キングは、これは「白人に対する勝利」ではなく、「正義と民主主義のための勝利」だと主張しました。彼は黒人たちにまたバスを利用して「敵が味方に変わるくらい愛情深くなるよう」促しました。
自伝の中で、キング牧師はモントゴメリーのボイコット運動を「アメリカの黒人にとっての心理的な転換点」と呼んでいます。そのボイコット運動は、よく組織された非暴力的な方法で力を合わせることによって、黒人たちは成功することができるのだということを明らかにしました。この事件は、彼らの主張は正しいというメッセージを国全体に送ったのです。