願望は羨望に、羨望は嫉妬に、そしてそれを乗り越えて | どっかの大学生のブログ

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というわけで、さっそく本題に入ろうかと思う

人は必ず何かを願う、それはたとえば、「背が大きくなりたい」、「お金がほしい」、「やせたい」etc

そしてそれは、「あぁ、あの人あんなに背高くていいなぁ」とか「宝くじ当たる人っていいなぁ」、とか、

「あの子めっちゃ細い!!いいなぁ」というあこがれをもつ。

しかし、それが現実味を帯びてこないと、負すなわちマイナスの方向へ進む

「あいつ、背は高いけど、性格がな」とか「金がすべてじゃないし」など

ある種の現実逃避「すり替え」が行われる。

そして、いつぞやもったあこがれは嫉妬に代わる。

身近な例でいうと

「友達が欲しい」⇒「友達いっぱいなやつうらやましい」⇒〈できないと…〉

⇒「別に友達なんかいなくてもいいし、一人でもくもくやってた方が楽しいし」

というような感じになる

この場合、たいていの場合、本人の努力不足な場合が多い

本人いわく、自分なりの努力をしたというだろう

しかし、それはあくまでも主観的な判断であり、正確な判断を下せてない場合が多い

たとえば、普段勉強もしない人が試験の直前にだけ、1時間勉強する

おそらく本人は努力したというだろう。しかし、普段からコツコツとやり続けてきた人に比べれば

その勉強量の差は明らかだ。こうして、「何だ、やっても無駄じゃん。

変わらないならやんなくてもおんなじじゃん」と言う風になる。

これは明らかに客観的な判断ができていれば出てこない結論だろう。

たしかに、1時間その人は努力したのかもしれない。それはある意味成長ともいえよう

しかし、その努力は継続していかなければ意味がないのである。

当然最初は抵抗を覚えるだろう。新しい何かを人が始めるとき、

人はそれにある種の抵抗を覚えずにはいられない。

その抵抗に屈すれば先述のようになるだろう。その抵抗にあらがい続け、その抵抗に慣れ

それを自分の感覚の中から消滅させることができるかどうかがすべてのカギとなってくる

 苦手な科目があったとしても少しずつほんの少しづつやっていけばそれはいつか

あなたの大きな糧となりえよう。そしてそれは、今後のあなたへの自信へとつながる。

あの時もできたんだから、今回だってできる。

その自信があなたをさらなる高みに押し上げることだろう

ここで、ある友人から聞いた素晴らしい言葉を紹介しようと思う

「今下がっているのは、さらなる高みを目指すために膝を曲げているからだ」

たしかに。これを聞いた時非常に感銘を受けた。より高く飛ぶためには全身をばねのように使い

膝を曲げねばならない。そのため視線が一時的に下へ来る。しかしそれによってより高くへ飛べるのだ

この言葉とともに、残り数カ月の受験戦争をたたっかて行こうと再び心に決めた今日この頃であった