ある朝彼女の郵便箱を見ると、14歳でノルウェー人の小学生のソフィー・アムンゼンという女の子が驚くべき紙切れを見つけた。そこには、「あなたは誰?」、「世界はどこで生まれたのか?」という2つの疑問があった。この手紙を書いたのは、アルバート・ノックスと呼ばれる不思議な哲学者であり、彼の2つの意地悪な質問は西洋の哲学の歴史の始まりでしかなかった。一連の手紙の中で、彼は哲学者たちが文明が生まれてきてからずっと問い続けている疑問に対して、彼女の探究心旺盛な心を開かせる。ここに彼の手紙が2枚ある。
親愛なるソフィーへ
多くの人々は趣味を持っている。古い硬貨を集めたり、外国の切手を集めたりする人もいる。写真を撮るのが好きな人もいる。又、余暇の大半の時間を特定のスポーツに費やす人もいる。多くの人々は読書を楽しむ。しかし、読書の好みは実に多種多様だ。新聞やマンガを読むだけの人もいれば、小説を好む人もいるし、天文学や動物についての本を好む人もいる。私たち全員に関わり合いのある物は何もないのでしょうか。誰だろうが、どこに住んでいようが関係なく、皆が関わり合いのある物はないのでしょうか。いや、皆に関わり合いのある物はある。当然全ての人に関わりのある疑問があるのです。それらこそ、この授業が扱っている疑問なのです。
人生で1番大切なことは何か。餓死しそうな人は食べ物と言うだろう。凍死しそうな人は暖かさと言うだろう。孤独死しそうな人は人が一緒にいる事と言うだろう。しかし、これらの基本的な要求が満たされてもまだ皆が要求するものはあるのだろうか。哲学者はそのように考える。彼らは人間を理解する必要があると思っている。私達は自分達が誰で、どうしてここにいるのかを知る必要がある、哲学への最も良い方法はいくつか哲学的な質問をすることだ。例えば、どうやって世界が作られたのか、出来事の背景には何らかの意思や意義があるのか、死後に命はあるのでしょうか。どうやったら、私達はこれらの疑問に答えられるのでしょうか。最も重要なのは私たちはどのように生きるべきなのか、人間はいつの時代もこういった疑問を問い続けてきたのです。私達の知っている全ての文化はこういった疑問に答えようとしてきた。
そろそろ、あなたはこれらの疑問に対するあなた自身の答えを見つけなくてはなりません。あなたは百科事典によって神がいるかどうか、死後に命があるかどうかを見つけ出すことは出来ない。又、百科事典は私達がどう生きるべきなのかも教えてくれない。しかし、他の人々の信じていることを本などで読むのは、私たち自身の人生観に到達する為の助けとなる。たくさんの古代の謎は今では科学的に説明されている。かつて、月の陰の部分は完全に未知だった。しかし、今日、私達は正確に月の陰の部分をどのようなものなのか知っています。もはや誰も、月の男の事を信じない。
2000年以上前のギリシャの哲学者は哲学は不思議に思う感覚から始まったと信じていた。哲学的な質問は私達が生きるということがどんなに驚くべきことかということを 認識した時に生じる。それは、手品の仕掛けのようなものです。私達はそれがどうなっているのかわかりません。私達は「どうやって手品師は2枚の絹の布を生きたウサギに変えるのか」尋ねられる。ウサギの場合、私達は、手品師が私達を騙していることを知っている。私達が知りたいのは正確にはどうやって手品氏は私達を騙しているのかということだ。しかし、世界の場合、全く違う。私達は世界はトリックではないことがわかっています。なぜなら私達が世界に存在し、世界の一部だからだ。実は私達は手品によって現れたウサギなのだ。手品師のウサギは手品のタネの一部であると認識していない。つまり私達はウサギとは違うのです。私達は何か不思議なものの一部で、それがどのように作用しているのかをすべて知りたいと感じる。
いいですか、ソフィー。続く。
ソフィーの心は色々な思いがよぎっていた、いいですか、彼女は手紙を読んでいる間息をしていたかどうかわからなかった。誰がこれを持ってきたのか、その手紙には切手がなかった。その手紙は直接送ってきたのだ。ソフィーは、自分の時計を見た。3時だった。彼女の母は仕事で2時間以上家には帰って来ない。ソフィーは再び庭へ行き、郵便箱のところへ走って行った。おそらく、別の手紙があるだろう。そうであった、別の茶色の彼女の名前が書いてある手紙があった。
再び、こんにちは。見ての通りこの短い哲学の授業は手のひらサイズの形で届きます。手紙には、前置きが書いてあった。私は良い哲学者になる為に必要なものは不思議に思う感覚だということを言いましたか?もし、言っていないのなら今言いましょう。「良い哲学者になる為に必要なものは不思議に思う感覚だけだ」赤ちゃんはこの感覚を持っている。それは驚くことではない。母親の体の中で数カ月過ごした後、全く新しい存在として生まれる。しかし、不思議に思う感覚は彼らが成長するにつれて、なくなっていくように思える。これはなぜですか。あなたは知っていますか。
ここで、ちょっとした思考実験をしてみよう。ある朝、母と父そして2,3歳の小さなトマスがキッチンで朝食を食べています。しばらくして、母は席を立ち、キッチンの流し台へ行き、父はそう、父は浮かんで天井付近をふわふわと動き回っていて、トーマスはそれを座ってみていた。トマスはなんて言うと思いますか?トマスはきっと父を指さして、「パパが飛んでる」と言うだろう。トマスはきっと驚くだろう。だけど、トマスは本当にいつも驚いている。父があまりにも多くの奇妙なことをしているので、朝食のテーブルの上を飛ぶことぐらい彼には何でもないのである。毎日、父はおもしろい機械でひげをそっている。時々、彼は屋上に上り、テレビアンテナの向きを変える。他には彼は車の内側に頭を突っ込んで、顔を真っ黒にして出てくる。
そして、母の番です。彼女はトマスが言った事を聞いて、振り返る。彼はどういう反応をすると思いますか?彼女はジャムを床に落とし、叫んだ。
彼女にはたとえ父がきちんと自分の席に戻っても、薬が必要かもしれない。彼はすでにちゃんとしたテーブルマナーを身につけておくべきだった。あなたはどうしてトマスと母の反応がこんなにも違うと思いますか。その全ては習慣と関係がある。母は人が飛べないのを知っている。トマスが知らない。彼はこの世界で何が出来て、何が出来ないのかをまだ知らないのだ。しかし、世界そのものはどういうものだと思いますか、ソフィー。君はこの世界が自分のしていることが出来ると思いますか。世界もまた宇宙空間を漂っている。
悲しい事に、私達が成長するにつれて慣れるものは重力だけではない。世界自体もあっという間に習慣化されてしまう。成長する過程において私達は世界に対する驚きを失っているように思える。そして、そんな中で、私達は哲学者たちが何とか復活させようとしている大事な何かを失いそうである。我々のどこか内部で、我々は生きるということはとてつもなく大きな謎であると感じているのだが、その感情というのは、そのことを我々が考えられるようになる前に我々が抱いた感情なのである。子どもにとって、世界や全てのものが新しく、驚くものである。大人にとってはそのようなものではない。大半の大人たちが当然のことのように世界を受け入れている。
しかし、哲学者たちは違います。1人の哲学者は決して世界に慣れようとはしなかった。彼または彼女にとって、世界は目新しく、素晴らしいものであり続けるように思える。君は哲学者は子供のように心を開いたままであるというかもしれない。なので、君は選ばなければならない。ソフィー君はまだこの世界に慣れていない子供なのだろうか、それとも
この世界に絶対に慣れることのない約束する哲学者なのだろうか。もし、君が首を振って、子どもでも哲学者でもないというなら、用心しなさい。君は危険なんだ。君はこの世界にすっかり慣れてしまって、この世界はもはや君を驚かさない状態になっている。私は万一に備えてこの哲学の授業を送っています。私はあなたに探究心を持ってほしい。
母親が家に帰ってきた時、ソフィーは母親を引っ張り居間へ行き、ひじかけいすに座らせた。「お母さん、生きていることが驚くべきだと思わない?」彼女は始めた。彼女の母親は最初驚いて答えられなかった。ソフィーはいつもは母親が帰ってきたとき、宿題をしている最中であった。「私は思うわよ。時々」「時々、そう、なら世界が存在するって驚くべきことじゃない」「いいから、ほら。そんなことを言うのはやめなさい。」「どうして、世界を全く普通のものだと思っているからじゃない?」「ねえ、世界は全く普通のものではないんじゃないの、いづれにしても、多かれ少なかれ普通じゃないと言えば、そうなんじゃないの」ソフィーはあの哲学者が正しいことが分かった。成長は世界を当たり前のものとしてしまう。あの見知らぬ手紙の主は、ソフィーを大人の世界に入って夢遊病者と同じような存在になる事から救ったのだ。