日本の全ての土地・人民を、天皇(公)の所有・支配とする、「公地公民制」は、財産の私的所有を禁止し、「国家」による、挙動所有とする、現代の「共産主義」であると言える。
共産主義は、マルクス、エンゲルスによって、近代に初めて、理論化されたとは言えない。
既に、古代の中国、日本に「公地公民制」として、存在していたのである。
藤原不比等は、阿閇皇女(元明天皇)付きの女官である、橘三千代と婚姻関係になった。
橘三千代は、県犬養東人の娘と言われ、敏達天皇の子孫、美努王と結婚した。
美努王及び、三千代の間に産まれたのが、葛城王、佐為王である。
736年、葛城王及び、佐為王の兄弟は、臣籍降下して、「橘」姓を賜り、橘諸兄(葛城王)、橘佐為となった。
橘三千代は、皇室との関係が深いため、藤原不比等は、妻の橘三千代の力添えによって、文武天皇の即位直後には、娘の藤原宮子が、天皇の夫人となった。
藤原宮子は、賀茂比売の娘を母とする、藤原不比等の長女である。
藤原宮子は、文武天皇との間に、首皇子を産んだ。
首皇子は、後に東大寺の大仏を造立した、聖武天皇である。
中臣鎌足が、天智天皇に藤原姓を賜った後、その息子の藤原不比等が、幼少であったため、鎌足の甥で、婿養子とされる、中臣意美麻呂が、一時的に藤原氏を継いだ。
後に、成長した、不比等に正式に文武天皇の勅命が下り、改めて、藤原姓は、藤原鎌足の嫡男の藤原不比等とその子孫のみとし、他の者は、中臣氏に復するように命じた。
即ち、全ての藤原氏は、藤原不比等の子孫である。
中臣氏は、平安時代には、「大中臣」と呼ばれることになる。
藤原不比等と橘三千代の間の娘、光明子を首皇子の妃としている。
光明子は、後の光明皇后である。
藤原不比等は、708年(和銅元年)には、正二位、右大臣に昇り、720年(養老四年)に死去した。
享年、62歳。
藤原不比等の最初の妻は、蘇我倉麻呂の五男、蘇我連子の娘、蘇我娼子である。
不比等と娼子の間には、武智麻呂、房前、宇合の三人の息子が産まれた。
また、不比等は、異母妹、即ち、藤原鎌足の娘、五百重娘と結婚し、二人の間に産まれたのが、麻呂である。
五百重娘の最初の夫は、天武天皇で、五百重娘は、新田部皇子を産んでいる。
武智麻呂、房前、宇合、麻呂は、藤原四兄弟と呼ばれ、藤原不比等の死後、奈良時代前半、天平年間に政権を握った。
藤原氏は、四兄弟の後に、四家に別れ、長男の武智麻呂の子孫が、「南家」、次男の房前の子孫が「北家」、三男の宇合の子孫が「式家」、四男の麻呂の子孫が、「京家」と呼ばれ、藤原氏は、日本史上に大きな影響を与えることになる。
時代を遡るが、707年(慶雲四年)に、文武天皇は、24歳の若さで、崩御する。
皇太子の首皇子は、未だ、幼少の7歳のため、天智天皇の皇女で、草壁皇子の正妃の阿閇皇女が、元明天皇として、即位した。
阿閇皇女は、文武天皇の母であるため、皇位継承は、息子から、母へと変則的に継承された。
藤原不比等は、元明天皇に重用された。
元明天皇の治世における、最大の事績は、平城京への遷都である。
平城京は、唐の長安城を模倣して、大和国に建造された。
中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置き、東西8坊 の面積を有し、中央を南北に走る、朱雀大路によって、左京・右京に二分され、南北・東西を大路・小路により、全域を碁盤の目の様に整然と72坊に区画設定された。