劉邦に粛清された、韓信、彭越、英布は、劉邦が、漢中王になった後に、劉邦に従った。

 そのため、同郷の盧綰、樊噲、蕭何、曹参、夏侯嬰程には、劉邦との信頼関係はなかった。

 更に、張良は、同郷ではないが、劉邦の挙兵後、早い段階で、劉邦の股肱の臣となっていた。

 劉邦が、韓信、彭越、英布に猜疑心を抱いたのは、信頼していなかったためである。

 しかし、劉邦の猜疑心は、幼馴染の盧綰、樊噲にさえ、向けられるようになる。

 盧綰は、紀元前202年に、燕王の臧荼が、反乱を起こして、敗死すると、後任の燕王に封建された。

 しかし、紀元前195年、劉邦が、英布討伐の際の負傷が原因で、体調を崩していると盧綰が、謀反を企てているとの告発が行われてしまったのである。

 盧綰は、「皇帝陛下の第一の親友」から「謀反人」になってしまったのである。

 そのため、劉邦は、盧綰の親友の一人である、樊噲に燕討伐の大将に命じた。

 しかし、詳細不明の者が、「樊噲は、呂后の義弟です。皇帝が、崩御すれば、即座に戚夫人と如意を族滅するでしょう」 と讒言したため、劉邦から、勅命を受けた、陳平に捕らえられ、周勃と交代された。

 盧綰は、「陛下は、病気のせいで、気が動転されているだけだ。 

 陛下の病が、本復すれば、私は、真っ先に詫びを入れるつもりだ。

 さすれば、陛下は、即座に私をお赦しになるだろう」と劉邦のことを信じていた。

 しかし、同年夏に劉邦が、未央宮で没し、恵帝が、即位した。

 盧綰は、その報を聞くと、匈奴の元へ亡命した。

 劉邦の生前、諸侯王の廃絶政策に大きな役割を果たしてきたは、呂后であった。

 呂后が、皇太后として、恵帝を後見することを知ったため、盧綰は、絶望したのである。

 冒頓単于は、盧綰を歓迎し、「東胡の盧王」に封建するも、一年余で、盧綰は、病死した。

 呂太后の妹の夫であった、樊噲は、劉邦の死後、釈放された。

 劉邦は、自身の手で、幼馴染の盧綰と樊噲を粛清せずに済んだのである。

 世界の歴史上、功臣の粛清は、枚挙に暇がない。

 しかし、中国史上、有名な功臣の粛清は、漢の劉邦及び、明の朱元璋であろう。

 二人の共通点は、農民出身であったことにある。

 皇帝ではないが、ド同様に、農民出身の毛沢東は、中華人民共和国の建国後、革命の同志を粛清している。

 逆に、中国史上では、後漢の劉秀、唐の李世民、宋の趙匡胤等、中華の統一後、功臣粛清を全く、行っていない、英雄達がいる。

 後漢の劉秀、即ち、光武帝は、劉邦の九世孫であり、父は、南頓県令の劉欽であった。

 王莽が、漢の皇位を簒奪すると、全国で、王莽への叛乱が頻発すると、挙兵して、最終的には、漢を再興し、光武帝となる。

 劉秀には、雲台二十八将と呼ばれる、漢再興の功臣達がいた。

 劉秀の臣下は、劉邦の臣下に引けを取らないが、劉秀自身が、神の如き、智謀を有信、深謀遠慮であったため、劉秀を凌ぐ程の大功を挙げていなかった。

 そのため、劉秀を越える程の才はなく、また、劉秀が、功臣達を信頼し、大切にしていたため、粛清の必要がなかった。

 李世民、即ち、唐の二代皇帝、太宗には、凌煙閣二十四功臣と呼ばれる、功臣達がいた。

 唐の建国者は、李世民の父の李淵であるが、事実上、隋末の混乱期に中華を統一したのは、李世民である。

 李世民は、世界史上最高の「人徳」を有し、敵の武将達が、次々に李世民の臣下になった。

 李世民は、臣下を信頼し、臣下達は、主君を信頼していた。