韓信は、事に当たっては、用意周到に計画し、慎重さに抜かりがなかった。
しかし、自分を大いに買って、引き留め、大将軍に推挙してくれた、蕭何だけは、信用していたために、誘いに乗ってしまったのである。
韓信は、劉邦の帰還を待たずに、長安城中の未央宮内で、斬られた。
死ぬ間際に「蒯通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。
また、韓信の三族が、処刑された。劉邦は、韓信の死後、陳豨の討伐を終え、帰って来た。
劉邦は、当初、韓信が、死んだことに悲しんだが、韓信の最期の言葉を聞いて、激怒すると、蒯通を捕らえて、誅殺しようとした。
しかし、蒯通が、当時は、劉邦の部下ではなく、韓信の部下のため、韓信を思って献策したと堂々と抗弁したため、助命して、解放した。
前述の通り、陳豨が、叛乱を起こすと、劉邦は、親政した。
その際、劉邦は、彭越に対し、出陣するように命じたが、彭越は、病気を理由にして、兵を将軍に預けて、送った。
劉邦は、激怒して、使者を派遣し、彭越を問責した。
彭越は、誅殺されると恐れて、部下の扈輒は、彭越に反乱するように薦めたが、彭越は、変わらず、病気と称し、閉じこもっていた。
しかし、紀元前前96年夏に彭越の部下の「彭越は、反乱を起こそうとしている」の讒言を受けて、劉邦は、彭越を偽って、捕らえ、梁王の地位を取り上げた。
当初、劉邦は、彭越を殺そうと思っていたが、彭越と、直接、会うと同情が芽生えた。
そのため、劉邦は、彭越を殺さずに庶人として、蜀郡青衣県へ流罪にすることにした。
蜀郡は、非常な辺境の地のため、彭越は、故郷の昌邑へ帰り、隠棲したいと望み、呂后に泣きついて、その願いを劉邦に伝えてもらえるように頼んだ。
呂后は、彭越の前では、頼みを快く引き受けたが、劉邦に会うと彭越の様な、危険な人物を生かしておくのは、後の禍根を残すので誅殺すべく進言をし、劉邦は、押し切られてしまう形で、彭越は、処刑された。
彭越の遺体の首は、洛陽の市街地で晒し者とされ、遺体を葬ろうとした者は捕縛するとの詔が下され、その他の部位は、呂后によって、防腐のために醢にされて、諸侯に送られた。
彭越によって、斉への使者に出されていた、彭越の部下の欒布は、帰国後、処刑されていた、彭越の首級に対して、復命をし、彭越の首を祀って、哭泣した。
劉邦は、欒布を捕らえると、「お前も彭越と反乱しようとしたのか?この者を煮殺せ!」と欒布を煮ようとした。
欒布は、「彭王がいなければ、項羽を滅ぼせなかったはずである。
不確かな証拠で、功臣を殺せば、将達は、自分の身が危ういと思う。
彭越が、死んだ以上、生きる必要がない。早く煮殺すがよい」と言った。
劉邦は、欒布を許し、都尉に任命した。
韓信及び、彭越が、劉邦によって、粛清されると、英布は、自分への誅殺を恐れ、反乱の準備を整え始めた。
更に英布の側室と密通を疑い、監視していた、家臣の中大夫の賁赫が、英布に誅殺されるのを恐れて、劉邦に英布の反乱の計画を密告した。
英布は、追い詰められ、紀元前196年の秋に反逆した。
劉邦は、激怒して、英布の淮南の王位を剥奪した。
劉邦は、自身の七男の劉長を淮南王に封じた。
英布は、反逆するに当たり、英布は、配下を集めて言った。
「劉邦は、病であると聞いている。自身が、出馬することはないであろう。
大将を用いるとしても、韓信、彭越は、既になく、他の将は、恐れるに足らず」。
淮南国相の朱建は、英布を強く諫めるが、重臣の梁父侯は、賛意を示した。