劉邦は、過去に項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して、「お前にとっても、父親になるはずだから、殺したら、煮汁をくれ」と項羽に返答した。 

 次に項羽は、「二人で、一騎討ちをして、決着をつけよう」と言ったが、劉邦は、笑って、受けなかった。

 項羽が、劉邦と義兄弟になったのは、項梁の生前、共に秦軍と戦っていた頃と思われる。

 項羽は、弩の達人を伏兵にして、劉邦を狙撃させると、矢の一本が、劉邦の胸に命中した。

 劉邦は、大怪我をしたが、味方が知れば、全軍が崩壊する、危険があると考え、劉邦は、咄嗟に足をさすり、「俺の指に当ておった」と言った。

 その後、劉邦は、重傷のため、床に伏せたが、張良は、劉邦を無理に立たせて、軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

 劉邦は、秦の食料集積地であった、敖倉の食料を手に入れて、滎陽の北の広武山に布陣し、また、蕭何が、関中から、食料と兵士を劉邦に送り続けていた。

 一方、項羽は、彭越による、後方攪乱によって、楚軍の食料は、少なくなっていた。

 漢軍では、前述の通り、劉邦自身が、負傷したため、両軍共に和睦を望むようになった。

 劉邦軍の弁士の侯公が、使者となって、項羽の許に派遣された。

 劉邦と項羽は、和睦し、天下を二分することを取り決めて、両軍が引き上げることになった。

 この時、劉太公及び、呂雉は、劉邦の下に戻ってきている。

 劉邦が、紀元前205年に漢中を出撃し、関中を落とし、楚漢戦争が始まってから、二年後の紀元前203年のことである。

 劉邦は、盟約通り、引き上げる気でいたが、張良と陳平は、楚軍が、本拠に帰って、英気を養った後では、漢軍は、到底、敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきと進言した。

 劉邦は、二人に従って、楚軍を後方から、襲ったが、敗北した。

 攻撃に先立ち、韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、二人は、来なかった。

 劉邦が、共同軍に対する、恩賞を全く、約束しなかったためである。

 劉邦は、張良にそれを指摘されて、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする、約束をした。

 その結果、韓信・彭越・劉賈が、漢軍と合流した。

 楚の大司馬の周殷は、楚に反して、漢軍に味方し、項羽のいる、垓下に集まった。

 また、項羽の軍は、陳において、灌嬰・樊噲達に敗北した。

 劉賈は、劉邦の従兄弟で、周殷を説得して、味方にした。

 更に、英布が、漢軍に加わった。

 漢軍は、韓信が、30万の兵を率いて、先鋒となり、孔藂と陳賀が、側面を固めて、総大将の劉邦の後方に周勃と柴武が、陣取った。

 楚軍は、項羽が率いる、兵は、10万程度であった。

 韓信は、自身、先頭に立ち、項羽の率いる、楚軍と戦ったが、劣勢になり、後方に下がった。

 しかし、孔藂と陳賀が、楚軍を攻撃すると、楚軍が、劣勢になった。

 更に韓信が、これに乗じて、再び楚軍を攻撃すると、楚軍は、大敗した。項羽の楚軍は、敗北すると防塁に籠り、漢軍は、楚軍を幾重にも包囲した。

 項羽の楚軍は、兵は少なく、兵糧は、尽きていた。

 項羽は、夜になって、四方の漢の陣から、故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いた。

 項羽は、「漢軍は、既に楚を占領したのか。外の敵には、楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。

 敵や反対する者に囲まれて孤立することを意味する、「四面楚歌」の故事の由来である。

 項羽は、形勢利あらずと悟ると別れの宴席を設けた。

 項羽は、愛妾の虞美人と愛馬の騅(すい)との別れを惜しみ、項羽は、史上有名な垓下の歌を読んだのである。