韓信は、李左車の策に従い、労せずして、燕の臧荼を降伏させた。

 紀元前204年、韓信は、鎮撫のために張耳を趙王として、建てるように劉邦に申し出ると、認められた。

 李左車が、最初に韓信に策を尋ねられた時に当初、自分の考えを述べることに躊躇したが、その時に、彼が放った、「敗軍の将、兵を語らず」との言葉は、後世に伝わっている。

 李左車は、秦の始皇帝による、中華統一戦争の際、秦軍に勝利した、戦国四代名将の一人に数えられる、趙の李牧の孫である。

 臧荼は、項羽の十八王封建によって、燕王になった。

 その際、元の燕王、韓広は遼東王に遷された。

 しかし、その年の内に臧荼は、韓広を滅ぼし、遼東を併合し、燕全体の王となった。

 臧荼の降伏により、燕全土が、韓信に帰順した。

 韓信が、趙と燕を降伏させている間、劉邦は、項羽に対して、不利な戦いを強いられて、韓信は、兵力不足の劉邦に対し、幾度も兵を送っていた。

 しかし、劉邦は、苦境にあって、楚に包囲された、成皋から、脱出し、黄河を渡ると、夏侯嬰達と共に、韓信達のいる、修武へ赴いた。

 その際、幕舎で寝ている、韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。

 韓信は、起き出して、仰天した。劉邦は、張耳達、諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じ、曹参と共に斉を平定するように命じた。

 しかし、劉邦は、韓信を派遣した後に気が変わり、儒者の酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。

 紀元前203年、韓信は、斉に攻め込む直前で、既に斉が降ったと聞いて、軍を止めようとした。

 韓信の軍中にいた、弁士の蒯通は、「進軍停止の命令は、未だ出ていないので、このまま、斉に攻め込むべきです。

 酈食其は、舌だけで斉を降しており、今のままでは、貴方の功績は、一介の儒者に過ぎない、酈食其より、劣ると見られるでしょう」と進言した。

 斉は、70余城を有しており、韓信の落とした、50余城より多かったのである。

 韓信は、蒯通の進言に従って、斉に侵攻した。

 備えのなかった、斉の城は、次々と破られ、斉王の田広は、激怒して、酈食其を釜茹でに処し、高密に逃亡した。

 斉、は楚に救援を求め、項羽は、将軍龍且と副将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。

 龍且は、周蘭に持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って、決戦を挑んだ。

 韓信は、龍且は、勇猛であるため、決戦を選ぶだろうと読み、広いが、浅い濰水という、河が流れる場所を戦場に選んで、迎え撃った。

 この時、韓信は、決戦の前夜に濰水の上流に土嚢を落とし込んで、臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。

 韓信は、敗走を装い、龍且軍を誘い出し、楚軍が、半ば、渡河した所で堰を切らせた。

 怒涛の如く押し寄せた、奔流に、龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は、灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭は、曹参の捕虜となった。

 韓信は、斉の平定後に、劉邦に対して、斉の鎮撫のために、斉の仮の王となりたいと申し出た。

 劉邦は、韓信の申し出に対して、「今、こんなに苦しい時に王になりたいなど、なんと恩知らずだ」と激怒した。

 張良と陳平は、劉邦の足を踏み、「要求を認めず、韓信に反旗を翻されては、我々には、勝ち目はありません。

 王になるのを認めて、韓信に斉を守らせるのが得策です」と進言した。

 劉邦は、冷静さを取り戻し、「功績を挙げたのだから、小さい事を言わず、仮王ではなく、真王となれ」と張良を斉に派遣し、韓信の斉王の即位を認めたのである。