張氏は、息子の張仲を説得して、数日後に孫娘を陳平に嫁がせた。

 陳平は、結婚後には、金回りが良くなるとそれを元に交際を広め、社の祭りにてで、宰領役になった際には、祭肉を迅速・公平に分配し、名声を高めたが陳平は「こんな物ではなく、天下を与えられれば、即座に裁いてみせるのだが」と言って、嘆息したと言われる。

 陳勝・呉広の乱の発生後、陳平は、若者達を引き連れて、魏王の魏咎に仕えるようになる。

 しかし、陳平の進言は、魏咎に聞いてもらえず、周りの讒言により、逃亡する。

 次に項羽に仕えて、謀反を起こした、殷王・司馬卬を降伏させた。

 その功績によって、都尉となったが、司馬卬が、東進してきた、劉邦に即座に降ってしまった。

 項羽は、激怒して、殷を平定した、将校を誅殺しようとした。

 陳平は、身の危険を感じて、項羽から、与えられた金と印綬を返上し、そのまま、再び、出奔した。

 その道中、陳平は。河を渡る際に、立派な容姿を見た船頭から、「実は、名のあるものに違いない。金や財宝を持っているはずだ」と思われ、船上で襲われそうになった。

 陳平は、それに気づくと、突如、裸になり、自身、船を漕ぎ始め、無一文であると、先に示したことで、襲われることを防いだ。

 陳平は、修武に辿り着くと、魏無知を頼って、劉邦に面会する。

 劉邦は、その話し合いで、陳平を気に入り、即日、項羽の時代と同じく、都尉に任じて、劉邦の乗る、馬車に陪乗させ、軍を監察させた。

 陳平への厚遇さに古参の将軍達は、不満を抱き、非難したが、劉邦は、受け付けなかった。

 その後、周勃及び、灌嬰達は、「陳平は、魏に仕え、用いられず、魏を去って、楚に仕えて、用いられずに、楚を去って、漢に流れ着いた、節度や信義の無い輩です。

 故郷では、兄嫁と密通して、今は、賄賂を取って、地位を上下させています」と品行の無さを訴えられる。

 劉邦は、度々の讒訴に陳平を疑い、魏無知に問い質した。

 それに対し、魏無知は、「私が、推挙したのは、陳平の才であり、徳ではありません。

 今、漢は、楚との攻防中の差し迫った、状況でありますから、古の有徳の士の様な者を得たとしても、何にもならないと思い、即座に必要な、奇謀の士を推挙したのです」と返答した

 また、陳平は、「魏咎は、私の策を用いませんでした。

 私は、失望し、楚に行きましたが、項羽は、一族等の意見しか、聞きませんでした。

 更に項羽は、私を罰しようとしたために、失望した、私は、漢王様が人をよく用いると聞いて、漢に来たのです。

 しかし、裸同然で、漢に仕えたため、金品を受け取らなければ、職務ができませんでした。

 私の計略が、採用する程で、無ければ、即座に金品と官位を返上して、暇乞いします」と弁明されたため、劉邦は、納得して謝罪し、改めて、護軍中尉に任じ、全軍を監督させた。

 その後、古参の将軍達は、何も言わなくなった。劉邦は、滎陽で、楚の大軍に包囲されるが、

 陳平は、不利な状況の中で、項羽の疑り深い性格を利用し、離間策を進言した。

 陳平は、項羽と部下との離間が容易にできると進言し、劉邦は、その実行に4万金の大金を陳平に与え、自由に使わせた。

 陳平は、「范増・鍾離眜・龍且・周殷等の項羽の重臣達が、功績を上げても、項羽が、恩賞を出し渋るため、漢に協力して、項羽を滅ぼすことによって、王になろうとしている」との噂を流し、項羽は、噂を信じて、疑うようになった。